盲腸の静かな夕べ

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2024-8-18


Kからお盆のLINEスタンプが送られてくる。夏の終わりだ。
ガラージュクリア。奇ゲーというのが全然納得できないくらいまっとうなゲームだった。女性の表現でちょっと引いてたのが恥ずかしい。クリアしないと語ってはだめだな。というのも、ガラージュの世界がよく語られるように深層心理だとして、(これからプレイする予定の人は読まないで欲しい、すいません)性と暴力の欲望が人間の根底にはあります、と提示されるのは、いや果たしてそうだろうかと常々疑問に思っているから(それは単純化しすぎだろうと。昨日ボージャック三周目も見終わったのだが、ボージャックは最終シーズンでダイアンを、自殺によって支配しようとしてたよねとか思い出した)、それがゆえに初見で雌機械の設定には、これが人間の歪んだ欲望ですよ、真実の姿ですよ、見ろよ、みたいな嫌らしさを見出してしまっていた。しかしこのガラージュはヤンというひとりの人間の脳内であることがミソで、そして手記によるとヤンはかなり重度の共依存(たぶん)からこの精神治療を受けたらしいことがわかる。性暴力の加害者かつ、やや被害者として彼は生きていて、精神世界を保つためにも、共依存相手の存在を自分の中で肥大させていくしかなかった。暴力に単純化されたヤンとジュースの関係性がそのままガラージュには反映されてしまい、雌機械はあのような設定になるしかなかったし、物語の解決も雌機械の存在との関わり方に左右される。ただのフェティッシュな設定なのではなく、この設定の解消こそが終末(治療完了)につながる。
結局エヴァもそうなったし、他者とはうまくつきあっていきましょう、というのが常識の世界で、そして「生きる演技」みたいに、自分の中に生かしてしまっている自分でしかない他者と共に生きていくみたいなのと違う形で、自分の中にいる他者に別れを告げるというのが、現実的ではないのかもしれないが(それが精神治療装置というファンタジーだ)、久しぶりに触れた物語のようで、新鮮だった。他者との訣別で新たな自己を得る、というのは確固たる自分があると思っているのか!?と考えはじめるとやっぱり非現実的なんだけど、そういう物語を信じないと治療できないものもある、と感じなくもない……。
私は道代ルートでクリアしたが、ああいうちょっと従順な感じの女性をかわいいと思って選んでしまう、自分の中のグロさみたいなものを発見して結構きつく、あと最終章のあたりの、さまざまな事柄が整理され消滅していく世界が地獄だった。あのあたりの、ヒントのなさゆえにうろたえながら、遠回りしながらやらなきゃいけないゲーム性は本当にすごい。
自分にもいろんな側面があるなという感覚は、今現在、重度の共依存ではないと自覚している自分にとってはあたりまえだし、「フルトラP」ではメディアを通じて現実に自己が複数あることを示していたし、それは救いとなる部分もある。昨日は本屋ホォルで嶌山さんと青山さんの話を聞いていて、自分のからだをどれだけ複雑にさせていけるかみたいなのが希望として語られていた。し、それをすごくよくわかることとして聞いていた。
それとガラージュは対極の、ありえない救いなのかな? ということを考えている。
ガラージュの、整理された状態の自己が現出する感じ?と、自己を消していく単純化ってにているだろうかとかも考えている。
ルイスコールの音楽を聴いている時、体が自分ではないように動きまくる!と感じていたことって、違うナラティブを流し込まれていることによる快楽だと思っていたんだけど、それはただ何も考えないみたいな単純化の作用なのかもしれないと思う。ちゃんとそこにある複雑さは受け入れていないみたいな?
さっき菊池成孔が、ルイスとかジェイコリとかグラスパーとか好きじゃない(長谷川白紙は良い)、みたいなツイートしていたのを見かけて笑、くそーと思いながらいわんとしていることの1/30くらいは感じられる気もする。
丁寧に揉み解されて感覚を変えてくれたライブは東郷清丸のホスピタリティ温泉みたいなアプローチくらいじゃないか(あれは、多分聞いていた自分の状態もちょうどよかった)。
久しぶりに会ったHさんに菊池成孔のツイートの話とルイスのあえてやってる軽薄な感じの話をしていた、うまくはなせなかったし、伝わらなかったっぽい。Hさんは会うたびに髪色が違うが、もう二周くらいして前の髪色だなという感じ。

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