2023-12-17
(とびとびで書いていた日記をかいつまんでいるので、「昨日」とか「今日」はほとんど意味がない)
12月に入ってからリングフィットを再開しかけたが、またここ数日体調を崩しており、やめている。右肩上がりに綺麗に増えていた体重がステイしはじめる。11月中の異常な食欲が過ぎ去り、変な感じ。日記を辿ると10日くらいからやや調子が悪い。
最近はまた手元で日記を書いていて、このサイトにいろいろ集約したいと思っていても、どうしても別にして書くという傾向がなくならない。少し前に知り合いのミュージシャンが、Xの本アカと裏アカを逆転させて、いわゆる知人だけをフォローしていた裏アカ的なものを公的なものにつくりかえていた。そうして、実際はどういうつもりなのかは知らないが、本音と建前的なものの境界をぶち壊したんだろうと思った。そうしたい気持ちはすごく分かるような気がした。使い分けていると、何かを隠しているような気分に多少なる。一方で、またフルトラッキング・プリンセサイザの話なのだが、あれを読むともはや自分が複数あるのはあたりまえなのだし……という気持ちにもなって、複数アウトプット先があってもとりあえず今の自分にとっては自然なので良しとする。
「首」をみた。アドリブっぽいところがたくさんあるし、セリフ被りも取り直さずにあえてそのままにしている感じだった。そこで生まれた妙な間を補完、というか取り繕うように変なインサート(ここででんでん太鼓のアップきたらどうしよう……と思ったらまさにそのカットが入って笑ってしまった)が入って、コントに流れ出そうな時間の感覚が、変に映画に揺り戻されるような感じで面白かった。そんな話を友達にしていたら、タケシが間の話をしているインタビュー記事を共有してくれた。楽しそうな映画はいいよな。キャスティングすごいし。
「動物たちは何をしゃべっているのか?」を読んでいて、最終的に言葉のみのコミュニケーションが発達しすぎて、現代人の身体はそれについていけていないという話になっていたが、そう、リアルコミュニケーションってあたりまえに大事だし、それが欠けると仕事も大変になるのだが、その上で情報量の少ない、意味が限定的である言語表現を選んでやっているわけで、それは時代に変に即してしまっている感じが多少あるかもしれないと思った。ことばはからだがないことが利点だと思っていて、好きなところだった(だからいまひとつ、朗読に興味が持てていないのかもしれない)。濱口竜介は「寝ても覚めても」の(小説の)身体性が面白いといっていた。小説の身体性ってなんだろうとか思う(身体性使いすぎ)。今日大谷能生のイベントで矢野さんがまさに小説の身体性、というものを語っていたみたいで、行けばよかったかな。
「動物たちは何をしゃべっているのか?」では人々の共感のためにダンスがあったという、からだの具体的な動かし方にも言及していた。少し前に、fさんとhさんとことばの学校の千葉さんの講義(第一期の)の話をしていて、講義メモを共有してもらっていた。「抽象的な構造を考えること自体がダンス」と書いてあって、単なる、ダンスという言葉つながりなのだけれど、じゃあ私のダンス(からだ)は構造で持って取り返していこ!などと安易に思う。
「東東京区区」をしばらくソファーの上に放置していたのだが、隙間時間に読んだ。街歩きをしながら、今の自分達について話している、未来の自分達の語りをやるところ、良すぎる。かつしたけいたさん、そういえば「四谷雑談集」の絵を描いていた方だと思い出す。
「インディーゲーム開発者の幸福な孤独」を一気読み。無邪気にみていたマージナルアクトの作品がウクライナの戦火の中でアーリーアクセスで配布されたこととか、雑多であることを引き受けたYoke martの精神に心を動かされる。ゲームという仕様上、選択せざるをえない「用意された言葉」には暴力性や虚しさの表現がある。
Dylan ChambersのYou Gotta Respect Yourself!、こういうポジティブ野郎の曲っていつまでも結局好きだ。
NIIKEIの受賞作品を読んでいて、「黒い血」の完成度でも受賞はだめなん?と思っていた(登場人物たちの移動やふりかえり動作の散りばめ方の調整がまじで良いと思った)が、「アッぽりけ」を読んで、ぶん殴り力というか、これで刺しますという意志の強さをもっと持たなければいけないのかもしれないと感じた。
はじめて泌尿器科に行ってみた。尿問題なし、異物は結石のカケラじゃないの〜?と言われる。診察スピードが早すぎてそれが大丈夫なことなのか聞く間もなかった気がするのだが、医者のテンション的には大丈夫だったのだと思う。一応でかい病院に来月も別の用事でいくので、ついでにCTの予約を入れてもらった。
朝は仕事をはじめる前に意図の見えない選曲をするブログをチェックするのが日課になっていて、今日ものぞいたら、イスラエルとパレスチナで撮影されたらしいMVを紹介していた。1993年の曲だった。他に説明はなかったけど、現在続いている虐殺への、管理人なりの抵抗なのだと受け取った。
昨日レトルトの実況をみていてすこぶる反省したのだが、「mannys」という、無人島にファーストフード店が現れる(「もう終わりにしよう」みたいな)ゲームをなんの気なしにみていて、隠しエンディング分までまるっとみてしまったのだが、隠しエンディングでは作者が自分の性質のこととか、個人的な感謝とかを述べていて、そうしたプライベートルームにプレイしていない人間がたどり着くのは、はっきりと悪だ!と思った。こだわりと個性の強い、映画愛をふんだんに感じる良ゲーだった分、申し訳ない気持ちだ(実況は全然いいし、それを見るかどうかの自分の選択の話)。
ぽこピーがsuno ai使ってのをみて、今書いている小説の最初の部分を入れ込んでみたら、首元がごちゃごちゃとした、口を開いた白い顔面不気味ジャケ写が生成されて笑ってしまった。suno ai、人と一緒に遊んでみたらもっと楽しい気がする。
ダンジョン飯を買った。ダンジョン飯に出てくるキャラクターへの愛って十二国記のキャラクターへの愛と近いものを感じると友人に伝えると、勘違いしていたのだが、その友人は十二国記読んでいなかった。読者が持っている情報の中でちゃんと完結させてるのがいいよねと友人は言っていた。
「沙央里ちゃんの家」を読み終わったので、次は何のホラーを入れておこうかなと思っておすすめなどをさらっとみていると、岩城裕明さんの作品、はじめて読んだのが「牛家」だと思っていたが、先に事故物件の方を読んでいたことが判明した。なんで気づいていなかったんだろう。
屋根裏ハイツの「すみつくす」をみた。舞台上の役者が、複数の役を引き受けるというのは演劇あるある、というか基本的な機能のひとつだと思うんだけど、それをきちんとガチでやっているというのが屋根裏ハイツの特徴なのかもしれないと思った。それでみ終わったあと結構衝撃だったのだが、作品中に食事シーンが結構ながくあり、普通に役者たちは小道具の食物を食べるのだが、一方で本をめくる動作などはマイムで、みている間はその差に、(マイムだなという意識はあったけど)違和感を覚えていなかった。また、役者の実年齢と役柄のおおよそ想定される年齢、または性別などの組み合わせが妙で、その人の見た目そのままがその役なのだろうと感じることもあるが、見た目が役を表さないパターンもある。演技も、みんな同じトーンではあるけど自然さにはばらつきがある。なのに、全員ひっくるめてちゃんとその場にいて(作品として変と思わなかったという意味)、それが体がある、というせいなのかもしれないけど、すごいんじゃないかと思った。それが(アフタートークでも言っていた)テーブルを運ぶ→棺を運ぶ、の動作の変奏の積み重ねとかで成立している世界なら、どういう技術だと感じる。