盲腸の静かな夕べ

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2026-2-12

今週の脳盗をOに勧められて聞いた。昨年から奇奇怪怪のリスナーになっていたが(最初はとばしとばしで聞いたり聞かなかったりだったが、メンパ回がツボに入りすぎて、ハマった。その時期はサスペンダーズのモープッシュの、「謎のオーディション」というギャグ漫画みたいな奇妙エピソード回も放送されていて、ラジオの面白さに慄いていた。ずっと笑っていた)、脳盗は聞いていなかったのではじめて。

脳盗ではtaitanが亡くなった祖父のことを話していた。まったくの他人の身内の死の話を聞いた。玉置さんの聞く態度が良かったとXで褒めている人がいた。確かにそうかも。ボーイフレンド2で、リュウキがカミングアウトのことをジョウブに相談した時、リュウキは恥ずかしがりながら、少し茶化しながら話していた。それをジョウブは一貫して真顔で聞いていた。笑い合うようなことではないという冷静な判断があった。私はそこに感動した。人の話を聞くときはそうでありたい。誤魔化し笑いを平気でやってしまうので。

憎んでしまった身内、いや憎しみというか、、自分の中で、「この人は重要ではない」と位置付けてしまった身内。誰が死んだとしても、誰かが死んだときは、自分の中にいるその人、がふっと現れて、そことの距離感に戸惑う。憎んでしまった身内ならなおさら。

毒親みたいなものは語りやすいが、距離を置いている親や祖父祖母、というものは語られにくい。ほどよい距離感の場合語るべきことがない。「生活史」みたいなもの、それはマイノリティのこれからのために語られる時は有用だとは思う。それに、個人史的なものに惹かれる理由もよくわかる。私も日記読んだりするし(最近はあんま読んでないけど)、個人が確かに存在するというのはそれだけでドラマっぽい。私個人の性質としても、体験したことを全て記録したいというような欲望に駆られている時期が長かった。ただ、最近は語られないでいる自由というか、語られていることだけに注力しないようにする方が重要なのではないかと考えることもある。だから、すごく微妙な家族との関係というものは今後も積極的に語られなくてもいいとは思う。でも、この電波にのった個人的な話を聞けてよかったとも思う。ラジオ特有の親密さだろうか。勧めてくれたOと少し家族の話(本当に少し。2ラリーくらい)をした。

二冊くらい続けて、誰かが死んだという事実と、誰かと疎遠になって二度と会わなくなることの違いがわからないみたいな内容が年末年始に読んだ本に出てきた。もしかすると亡くなっていた方が思い出す回数は多いかもしれない。

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