盲腸の静かな夕べ

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2024-1-2

昨日はtalk to me を見に行き、終わった後に下の階のガチャガチャコーナーを楽しくみていた(タテヤマフユコさんの作品のガチャがあり、驚いてすぐやった)後、地震があったのだと知った。新潟や山形にいる親類たちはわりと内陸の方だったので大丈夫とのことだった。そのあとはずっと津波のことについてテレビで放送していた。逃げろ、というテロップが大きく映されていた。チャンネルを変えると、本来放映されていたのだろう格付けの番組タイトルが一瞬左上に表示され(テレビの機能ね)、しかしずっと災害についてやっている。ひどい火事もある。長くはみていなかった。M-1の、見ていなかった敗者復活戦をTverで見ることにした。
twitterでは必要な情報にまざって、ひどい話やさっそく広まるデマへの注意喚起が流れていた。最近のtwitterのめちゃくちゃさ、インプ稼ぎのひどいアカウントが無限に湧き出る滑稽さ、情報が全て等しく金儲けにまとめられる様が可視化している状態に笑い、ひとりの人間(イーロン)が巨大なサービスをめちゃくちゃにしているということについてもはやいいのでは?という感情まで出てきていたが、情報インフラになっている以上このような時に機能しないのは、本当に良くない、と思った。

昼間、地元に帰り、元バイト先に顔を出してから、実家に帰り親や兄などと会ってきた。
途中で、覚えている最古の記憶の話になり、父の昔話を聞くことになった。祖父の事業の失敗で(テキヤ的なことをやっていた?)、夜逃げして兵庫に行って長屋に住んでいたらしい。その時に蛇を殺していたのが最古の記憶だという。当時のガールフレンドはヒメコさんというらしかった。釣りデートなどをしていたそう。裕福だった友人が空気銃を持っていて、スズメを撃っては、駄菓子屋に売っていたらしい(食用)。ヒメコさんも混ざって撃っていたそうだ。父は友人より腕が良く、スズメをすぐにとったのだという。駄菓子屋にはミッキーマウスの看板があって、それを描いたのが、手先の器用な祖父であった。
当時ダンプを運転していた祖父であったが、火事で車庫が焼けたそうだ。小さな爆発を見守った記憶があるという。
その後小2で東京に戻った父は、よそ者ということも影響したのだろうが、引っ越してからすぐに喧嘩をし、それから通うことになったI小学校のクラスで、喧嘩した相手男子と再会する。そして、この前ボコボコにしやがってとボコボコにしかえすと、クラスにいたA少年は、実は以前殴り合ったH少年の双子だったことが判明した。人違いで喧嘩をふっかけたことになったそうだ。
それから、あまり知らなかった祖父の来歴について父が簡単に説明した。祖父はできがよかったから軍隊でかなり出世したそうで、引き上げる時も真っ白なスーツを着ていたらしい。どこまで本当かはわからない。日本刀についてかなり熱のこもった弁を父に対してしていたらしく、それを聞いた父は、祖父が日本刀で、中国人を殺したのだという意識を強く持ったという。
それから父は今起きている戦争の話をしはじめて、まあ政治思想がかなり偏った人なので、ここには書きたくないようなこともたくさん言っていた。
帰ってくる間にSNSで羽田空港の事故を知る。晩飯時、バラエティ番組をみていると、一度能登半島の余震が速報で入り、そのあと羽田空港の事故の速報も入る。

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