盲腸の静かな夕べ

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日記:体力がない

11月25日

ここしばらくは仕事含めなんだかいろいろあった。仕事、うーん、仕事は、会社に入っていたと思っていたら向こうからしてみたら弟子を受け入れていたみたいな感じで、そのすれ違いが押し寄せている感じだ。人間性についていろいろ指摘されたりした。
それは身に覚えがないわけでもないんだけど、その後に偶然立て続けに久しぶり(数年〜10年くらい)の人々にそれぞれ会う用事があって、なんとかこうしてつながってる線はあるんだよなと、行き帰りの電車で感謝したりする。
一日中出歩いてへとへとになっている時が多い。体力がない。リングフィットの二週目(クリア後)にサイレントモードから普通に走るように切り替えたら、めちゃくちゃ疲れる。今まで楽してリングフィットやってたことがわかる(今の家にも下階に部屋があるが、時々親類が掃除しに帰ってくるだけで、基本的にはいない。なので振動をたててもわりと大丈夫だと思っている)。

一週間前の虫刺されの痒みと腫れがまだひかない。アブかブヨっぽい。

inscryption、やっと罠漁師を倒して、最後の面っぽいところまで辿り着いた。ルールがわかると勝てないという判断も早くなってサクサクすすむ。効率よくデッキ形成しないと全然勝てない。そして序盤全然活用できていなかった菌学者がとても頼もしい。たのしー。

ブンゲイファイトクラブも佳境。ジャッジの文章を読んでから作品に戻ったりしてみている。決勝作品を読んで思ったのは、たとえば「散骨」について、「散骨」は、冬乃さんの準決勝の作品に出てきた言葉でもあるんだけど、骨を撒き散らしたあと風で煽られて全部顔に浴びちゃうみたいな(ビッグリボウスキ)、それを笑ったり笑うことしかできないという精神にとても心揺さぶられるものがあって(共感といっていいかも)、そのギリギリ感というか、せいいっぱいとせいいっぱいの人たちがひしめくと案外表面的には優しい状況になるというか、表にでていないところが十分にある、それが何かはわからないけど、ただある、ということに良い優しさを感じる。文章には目の前にいる人物に届けない言葉も書かれることが多いけれど、その先の書かれていないところに手を伸ばしているのが草野さんの決勝作品だと思った。言葉で書いていないところでコミュニケーションがある。それを言葉でやっている。そのコミュニケーションを親密さと呼びたい。繰り返されるフレーズは、その埋まった文字数だけ情報を取り落とすようにみえて、文章全体に軽やかさを生むし、それはキャベツサイズの、子供の、まだ言葉を獲得している途中のヒトが扱う別種の言葉になっている。

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