盲腸の静かな夕べ

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日記

5月13日

代休。午後にチンポム展へ。平日なのに人がかなり多い! 一応時間指定のチケットでいくも、見るのに2時間はかかるのでそのあたり崩壊しかけているのだろうか。とにかく平日でよかった。
かなり集中力がなくて(雨のせいもあるか?)、この作品が刺さって離れられない、みたいな現象が起きなかった。初期作品などははじめてみた。エリゲロ、キツくてみるのをやめてしまったが、通しでみたらもっと印象変わったのかもしれない。隣でじっとスマホでそれを録画している人がいて(録画・撮影は許可されている)、その暴力性にも引いてしまった。
とにかく暗くて、展示の最初の方はキャプションも読みづらくなっている。なのでテーマパーク的な楽しみが少しあった。もともとその作品がつくられた「現場」でやられたことが重要になっている作品群が、こうして綺麗な森美術館に飾られているというのが不思議というか、ほとんどの作品が「記録」を通して感じられてるということ、「記録」を通して感じるしかないことで、、そういえば《ヒロシマの空をピカッとさせる》以降の話し合いや交渉がだーーっと年表で記されていて、こういうことができるのが記録、アーカイブの強みだなと思う。
最後の方の《サン》とかもう少しじっくりきいてもよかった気がするけどサッと通ってしまったな。小田原のどかがそれを含めた展示構成について批判的になんか書いていたらしいのであとで買おうと思う。
中でもみいったのは台湾での《道》の交渉記録。美術館と公道の双方の論理と粘り強く交渉しながら、新たな道の使い方を会得していくもので、この記事(「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」(森美術館)と「美術手帖 Chim↑Pom特集」の衝撃から「公共」を考える)の引用にもあったけど、日頃行動って海とか山とかみたいで、綺麗に保ちましょう、とか、そういう考えが幼少から叩き込まれている感じがある。それでもその道の用途から外れたもの(グラフィティとか謎のシール)に小さな魅力を感じたりすることはあるんだけど、それを大々的に「新たな道」としてつくりだしていく力が本当に、想像つかない。
あとは《Don’t Follow the Wind》の前にあったドアのことをふと今思い出した。そのインターホンをおすと、福島に実際にあった(今は取り壊されている)家屋のインターホンの録音がなる。訪れるための呼び鈴が、今はない建物の中に響いていた感触を呼び戻す。

力、を感じるから同時にすごく悩ましくもなる。そういう道を切り開く人々は絶対に必要で、しかしその激しさから距離をおいてしまう自分を考える。否定されているわけではないんだけど。では小ささから何がはじめられるだろうか、

みおわったあとははじめて入る変な喫茶店へいって、Jodo Jurnal3を少し読む。そのあと、ソーシキ博士の「大シール日記展」へ。シールを数枚買った。一年の日記の記録(シール)なのだが、そのどれをチョイスして買うか、みたいな選ぶ行為がなんだか面白かった。とても共感できる日記があったり、でも共感ベースで選ぶ、という感覚でもなかた。

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