盲腸の静かな夕べ

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日記 一冊の本を書くということ/引っ越し

 一冊の本を書くという大変なことをしたわけではない。最近映画美学校のことばの学校を受講していて、その中で3回あるはずの課題提出の2回目の内容が、次のようなものだった。「『本当にあったこと』というタイトルで一冊の本を書くという想定で、その書き出しの2000〜4000字」。これには頭をかかえた。まずはじめに、何文字書けば一冊の本になるという目安がわからなかった。googleで適当に検索をかけると、5万〜10万字、とか、感覚のつかめない数字が出てきて、5万か〜と漠然と思っていた。卒論でたしか3、4万字以上だったから、それでも足りない。つまり、卒論レベルのものよりもっと大きな問いを抱えなければいけないと思った。私が文章を書くに当たっては、問いが必要だった。だがそもそも私はまともな卒論を書けておらず後悔を抱えているという前提がある。長い文章を書いたことがないといっていい。課題提出はおよそ1ヶ月後で、半月は仕事と引っ越し関係の雑務で動けない。締め切りの日まで図書館に一度いくことすら危うい。それではどのように書こうか。

 「本当にあったこと」というのはどういうことか。毎週変わる講師たちとの質疑の中で、主任講師の佐々木さんは文章の真実性を論点としてあげることが多くあった。「本当にあったこと」は文章で書き表すことができない。それを乗り越える……という言い方もそぐわないか、その事実とともに、いかに真実を書いていくか? その戦略の発見が、この課題2に求められていることだと思う。ここまでばーっと書いて、別役実の言葉を思い出す。この世界に対して誠実でいるならば沈黙するしかない、ではそこから書き手はどうやって書いていくか、みたいな、めちゃくちゃあやふやであるけどそんな感じの言葉。

 講義をきいていく中で、舞台や台本に関する話が頻繁に出てきていて、私はかなり混乱していた。肉体が伴ってくる文になると、まったく前提が違うというか、しかし肉体を伴ったこの世を生きているんだから当然考えなくてはいけないだろうという気持ちの存在。それがあって、文章とからだのことを考えながら「本当にあったこと」を書いていこうと思った。それで手に取ったのが『クバへ/クバから』だった。上演されたわけではないけど、制作過程に上演を含み、そして将来的に上演の可能性を持つ戯曲の形式をとった写真集だ。消化しきれていないが、大きなヒントになった。キャッチーなところを雑にかいつまんでしまうと、巻末の文章にあった、東松照明のあたりの話が課題の内容につながった。被写体のためのルポルタージュ。私が私としてしか書くことができない状況から、私が書きながらも、ゆるやかに距離をとる語り手を出現させたいと思った。それは文章を書けば自動的に現れてしまう側面もある。でも、語り手がからだをともなう過程を書きたいと思った。たしか。
 滝口悠生さんが講義で、小説を書くときは(書き手ではない)語り手が語り始めるのを待つといっていた。そのはっきりとした口ぶりに感動しながら、実際、私にとって語り手が感じられる瞬間というものがない事実をどうしたものかと思っていた。だからこそ、語り手を発見したかったんだと思う。実感を伴って。ただ、リアル肉体が現れたらそれはもうオカルトなので、そこはどうしたらよいか。

 今住んでいる愛着のある町から引っ越すので、町について書きたいと漠然と思っていた。いろいろな懸念から、今回引っ越したくない気持ちがかなり高まっている(期待ももちろん、ある)。からだは今月に移動して引っ越しを完了するわけだが、引っ越したくない、と思っている私の気持ちにからだを与えて、そいつにもちゃんと引っ越してもらおうと目論んだ(かなりやばいことを書いているような気がする!)。町の歴史については調べる時間がとにかくないので、わかる範囲でひとまず書く。私視点の町が書かれる。そして課題用に少しだけ調べてつけた知識がまたありようを変えていく。文章の中に現れる町は私にとっても本当の町の姿ではなく、私という書き手の作業の上でできた紙面上の文字の町である。そこをもう少し具体的に見たくて、文章の中にいる人に歩いてもらう必要があった。歩く人は書き手の指示によってしか町を進めない。読者も書いてあることしか読めない。読まれることをおおいに意識せよ(またこれも雑なまとめ)という講義内容に従順になろうと思って、歩く人を通して読者のことを考えようともした(けど、今の所これ以上考えていない)。
 助けとなったのは、この町についてのフィクション作品ひとつと、怪談をひとつふたつ知っていたことだ。それをレイヤーとして重ねて、一人の視点の町ではないように擬態させられるんじゃないかと思った。

 町の描写について。どうすればいいか分からなかった。勉強と実践が足りないと思う。描写しきるということはできない。なので歩く人を導入し、歩く人に動画を撮ってもらった。動画だと視界は狭まる。歩く速度に、細かい描写は追いつけない。速度に合わせて、文章をはしょりはじめる。それを描写の基準とした。動画は実際に書き手である私も撮影し、それについては見返すこともあったが、見返す時間も含めて動画の速度だと思う。とりあえずそういうことにした。

 一冊の本の構成を考えるというものすごく高い壁は、やはり腹をくくってフィクションを書くということで乗り越えようと思った。ルポルタージュを書くには、やはり一冊書ききるための、書かなきゃと思う事実と出会わなければ無理だ。日頃のアンテナの精度の低さと締め切りまでの時間を鑑みて断念。対してフィクションであれば、それを持続させるための装置を構えることは期間内に可能かもしれないと考えた(可能であれ!)。
 「本当にあったこと」を書くことについて。この本をもし書ききることができれば、私の引っ越しに際する気持ちにカタがつくので、それは実生活に作用する本当にあったことになる。希望的観測というかほぼ祈りだ。

 とりあえず言葉になりそうな考えの部分を少し書いた。noteやブログじゃなくて、孤島というか戸建てが欲しくてHPを開設したので、せっかくだからこんな感じの文章も投稿してみることにした。他の記事も並べると本当にごちゃごちゃしている。ことばの学校の課題文のアップは個人の自由なので、気分が変われば投稿しようと思う。

 メルカリで漫画や機材が売れたのは嬉しい。機材にぴったりのダンボールをドンキでタダでもらえたことも嬉しい。来週は引っ越しである。

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