盲腸の静かな夕べ

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文体の舵をとれない 1-1 文はうきうきと

 ル=グウィンの小説教室、『文体の舵をとれ』の課題に取り組みはじめた。最初から煮詰まってしまったので、考えたり参照したものなど含めて書いていこうと思う。

練習問題①文はうきうきと
問1
 一段落〜一ページで、声に出して読むための語り(ナラティブ)の文を書いてみよう。オノマトペ、頭韻(※先頭文字を同じ子音で重ねること)、繰り返し表現、リズムの効果、造語や自作の名称、方言など、ひびきとして効果があるものはなんでも好きに使っていい。——ただし脚韻(※詩歌の句末を、同音にそろえること。句末の押韻)や韻律(※定型のリズムや拍)は使用不可。
「※」 部分は筆者の解釈というか辞書の引用



 物件探しは難航。ただ1人の人間の欲望を反映させるのなら容易い。しかし2人になれば齟齬が出てくるわ出てくるわで疲弊。どこのエリアにするかでもめて、さらに絞るのでもめる。やっとおそらく私たちが住みたいのはここだろうと決めた土地はヤネセン。ヤネセン。ヤマセン? と彼女は確かに聞き返したその彼女は東京生まれのはずだ。しかしよくよく聞くと生まれ自体は新潟らしい。育ちは東京。彼女は谷根千を知らない。谷根千から湧いて出てくる空き物件は極端に古いか新しいかで、私たちはまた右往左往。彼女は古い家に住みたい。私は新しい家に住みたい。ペットは飼いたいが飼う予定はない。好きと事情がこんがらがって2週間が経った。やべーのみつけたと、彼女が提示したサイトはホームズで、私はスーモで同じ物件を探した。違う違う、ホームズにのってる写真がやべーの、とまたホームズを見させられる。収納部分の写真だ。少し開いた押入れの隙間から、人の顔がはっきりとのぞく。わ、やべー。ね、やべー。やばいやばいと盛り上がりそのまま内見へ。他の物件を見るついでだった。おあつらえ向きに窓からは墓地がのぞく。この辺はね、寺が多いんですよ。へええー。不動産屋は汗を拭いて説明する。人気エリアなんで、このお値段でこの広さ、なかなかないです。へええー。彼女を見る。彼女もこちらを見ている。押入れを見る。押入れはしまっている。もう一度彼女を見ると、どうしよう、という表情をしていた。多分私もそんな顔をしていた。だって良い物件なのだ。今日見た中で一番私たちにぴったり。物件探しは運命。ドキドキしっぱなし。



取り組むまでのこと
 『文体の舵をとれ』の中ではうきうきするひびきの文の実例が4つあげられている。しかしどのあたりがうきうき要素なのか、というところで引っかかってしまった。そもそも訳文なので、本来のリズムがどれだけ翻訳されているかまったくわからない。それでもとりあえず声に出して読んでみる。
 実例一『どうしてサイはあんな皮なの』は、「紅海」からはじまり「パールシー人」、「ストーヴ型のコンロ」や、そして突然出てくる「サイ」にいたるまで、ゴツゴツとした物の名前(この辺りはひどく感覚的だ)が配置されているのが楽しいかもなと思った。「ごろりん」とか「ふりふり」とかの擬音は、子供に読み聞かせるならまだしも、ただ読みあげるのではなんとなく気恥ずかしさがあるというか、面白くは感じなかった。
 実例二『その名も高きキャラヴェラス群の跳び蛙』は、読んでいて喜びがある。英文をスラスラ読めたときの快感に近いというか、達成感を感じさせる。「出鼻よけりゃ二回転、ぺたんと無事に着地たぁ、さながらネコよ」あたりのリズムも好ましい。ただ読み上げるだけで勝手にリズムが生まれ、演技をしなくてもセリフっぽくなる感覚がある。
 実例三『彼らの目は神を見ていた』は、前半と後半で印象が大分変わるなと感じた。ル=グウィンの言う「催眠さながらのものすごい前への推進力」がいまいち分からなかったのだが、後半の「疑問に思ったことを火傷しそうな言葉に作り替え、笑い声から狂気を生み出す」あたりの、次から次へと転がるような変化がもしかするとそれに近いのかもしれない、と予想した。
 実例四『馬の心』は、一番好ましく読んだ。グウィンが評するところの「あらゆる言葉が完璧な並びとタイミング」の意味はつかめないが、第二段落以降の、身を前後にゆらし、それとともに加わる身体的、感情的変化のグルーヴがいい、と思った。この実例は問2の方に深く関係してくるなと直感した。

 はたしてこれらの実例が、私にとって声に出したい文章だろうか、ということを考えて、他にいくつか文章を探した。とりあえず、すでに課題にバリバリ取り組んでいる諸先輩がたの文舵練習。これは心労さんという方がnoteにまとめていたので、そちらを利用させてもらった(心労さんnote)。全部は読んでいないのだが、こんな書き方があるのかとその完成度に驚く文章がある。その中で「とりあえず書いた」と記している方がいて、多分問1に取り組む姿勢としてはそれが良いのだろうと肩の荷が下りた。
 あとは、中原昌也の小説を声に出して読んだ。『名もなき孤児たちの墓』収録の『美容室「ペッサ」』。これはたまたま先週読んでいて、もしかすると声に出したいとはこういう文じゃないかと思っていたら、田口ランディも解説文でそのように書いていた。声に出したいという文体の好みに、大分近づいてきたような気がする。
 最後に山縣太一の『ホールドミーおよしお』の台本を読んだ。台本じゃん。結局声に出す用に書かれたものが一番好きだなと思えた。
 こう考えているといつまでたっても書けないので、自分が声に出して読むための文体の方針を本当にざっくりと定めた。おそらく一人称一人語りがしっくりきて、なおかつ固有名詞が入り、文章が変なところで途切れても放っておく(変拍子的に)。方針に明確な根拠はない。



取り組んだあと(反省)
 15分かけずに直感的に書いていった。気持ち的にはうきうき書けたと思う。読み返してみると、「難航」や「疲弊」で止める文はあまり書いたことがなかったなと思う。「出てくるわ出てくるわ」という冗長な繰り返しも使ったことがなかった。「と彼女は確かに聞き返したその彼女は」と一文で「彼女」を2回使ったが、それはそれでちょっとリズムが外れる感じと、彼女をもう一度見返すみたいな雰囲気もあって、ありえる表現だなと思った。幽霊と墓地の「のぞく」の重ねはやりすぎかもしれない。最後、「物件探しは運命」で、最初の文と呼応させるのは明らかにダサい。


取り組んだあと(そもそも)
 この課題は自分のことばのひびきを知れ、意識しろ、というものだ。なので必ずしも「声に出す」ことを前提にしなくてもいいのではないだろうか。
 この課題を書いたあとに、映画美学校のことばの学校という、ことばについて考える講座のとある回をきいた。ゲスト講師の滝口悠生が、途中で朗読の難しさについて語っていた。そもそも読まれる前提で書かれていない文章を、読んでいるその人は誰であるのか。音声を伴わない声である小説が、音声化することとは。それを受けつつ主任講師の佐々木敦が、話の流れで日本語の特殊性について語った。漢字、ひらがな、カタカナ、それぞれに違いはあるのに、その違いは音声化すると消えてしまう。日本語という言語は、音声言語というより書記言語寄りで、耳できくものというより目でみるものであるといえる。
 以上の内容は、筆者が講義から受け取ったものであり、齟齬もあるとは思うが、そんなことを言っていた。そもそも、私は自分の声をあまり聞きたくはないし、他人に読み上げてもらう気も今のところないので、音声化される文章は考えないで、書かれた時に響きあうことばを考えることがいいのではないかと思った。それがどういうことかまだ分からないけど、がんばりましょう。

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