自分を自分の名で呼ぶ子どもだった。
ヨウはあの頃、アパートの屋根をよく眺めていた。ヨウが生まれる前に一度塗り直されたらしいが、綺麗とはいえない状態だった。かつては鮮やかな青色だったのだろう。そう想像させる屋根だった。
「青でいいかな」
ヨウは、アパートの階段横の、小さなドアから出てきたばかりの男に尋ねた。今まで何度か繰り返していた質問だった。
「勝手にしろ」
男は大きくのびをし、手の先で階段にそっと触れた。彼は、多くの子どもたちに「ゴミの管理人さん」と呼ばれていた。ヨウの家の隣に住むミミが、ゴミとかをやってる人じゃん? と言ったからそうなった。実際にゴミ処理などに関わっていたのかは知らなかった。
ゴミの管理人の背後で小さなドアが閉まった。閉まってしまうとそこにドアがあったかどうか、わからなくなった。ドアノブがついていないから、子どもたちは気になりながらも、そのドアを開けられなかった。
「今何時」
ヨウは別の質問をした。
「親に訊け」「青でいいかな」「勝手にしろ」「今何時っ」「二時半だ、ばか」
何度か質問を繰り返すと、たまに男は答えをくれた。叩けば直るラジオみたいだった。答えをくれない場合もあった。
二時半。屋根の色を脳裏に焼き付けてからヨウはアパートを離れた。同じようなアパートが高さを変えながら、テトリスのブロックみたいに並ぶ通りを抜けると、工匠がいる倉庫に辿り着いた。前でたむろしている数人の子どもたちの間をすり抜け、シャッターをぐいと持ち上げた。この時間には鍵がかかっていないのだ。中途半端に開いた隙間に、体を滑り込ませた。
運動場みたいな大きな空間に最初は戸惑って、右足を前に出すのが遅かった。もう慣れた。中は暗い。冷房の余韻があって、湿気が少なく、手の甲がさらさらして嬉しい。ここでしか嗅げない、ものづくりの変な臭いがした。黒いオイルや、肌についたら取り返しのつかない塗料を想像した。でも倉庫の中は案外綺麗だ。小さな引き出しがたくさんついた巨大な棚の他には、並べられた机と、その上に作品があるのみだ。
作品とはミニチュアの家だった。ヨウたちの家が長い机の上にずらりとあった。映画で見るアメリカかどこかの海外の家の並び方そっくりで、戸建ての家と家との間は広い道路みたいに見えた。外でバイクがうるさく走っているはずなのに、シャッター一枚隔てたここはいつも静かな町だった。
大人の手のひらふたつ分くらいのもの、両手を広げたサイズくらいのもの、壊れかけに見えるもの、適度に彩色されたもの、たくさんの家の制作状況はそれぞれで違っていた。十歳になるヨウの家は五十センチくらいの幅があった。形はほとんど完成していたが、まだ壁面と屋根は素地の白一色である。
ヨウが自分のミニチュアの外壁のざらざらをなぞっていると、遠くでドアが開いた。パチとスイッチの音がして、ヨウがいるあたりの照明がついた。いつもドアの向こうで寝起きしているらしい工匠がヨウの姿を認めた。
「まだ決めてないの?」
近づいてきた工匠は、手に持っていた厚紙を机の上の空いている一角に置くと、長い髪を、エプロンのポケットから取り出したヘアゴムで束ねはじめた。質問を無視し、ヨウは厚紙を指して言った。
「新しい子?」
「うん。生まれたんだって。歯医者の先生のとこの」
「へー」
「まだ決めてないの、屋根の色」
ヨウが押し黙ったので、工匠は笑った。
「最悪死ぬまでに考えればいいから大丈夫」
ここら辺りの伝統では、子どもが生まれると、その子どものために家のミニチュアをつくる。ミニチュアは、子どもが成長し、やがて死んだ時に棺の上に被せる装飾だ。最近では火葬のスタイルに合わせて紙でつくるのが一般的で、棺と共に燃やされることになる。死後に楽しく暮らすための邸宅、という葬儀用品でありながら、この世に生まれたことを祝う縁起物でもあった。大抵の親はミニチュアの制作を工匠に依頼する。そういう決まりはないけれど、工匠がつくる方が豪勢になっていいのだ。お金は出産祝いという名目で親戚がだいたい出してくれた。
実際に住んでいる家がミニチュアのモデルになる。ヨウの場合、アパートの細い階段を上った先にある、リビングその一と、リビングその二、みたいに役割のわかれていない小さなふた部屋が家の全部だ。リビングその一には部屋の真ん中にソファが据えられている。ソファといってもそれは夜になれば母親のベッドになった。元々は父親が寝ていたけれど、臭くなるとか、いろいろあって母親が寝ることになった。ブランケットはいつもかけっぱなしだ。
ソファの背もたれの後ろには、たわんだ棚がある。そこにヨウや姉の勉強道具、父親が読む本、家計簿、絵本、ティッシュ、ハンディ掃除機、工具箱、少しの洋服……あとはかつて靴の入っていた空き箱があって、その中にはクリップとか輪ゴムが入っていた。棚の上には、インクの切れたペンで溢れかえったペン立てと、その日によって違うものが置いてある。例えばヨウがもらってきたおもちゃ、または工作でつくった紙細工、新聞、など。ソファの正面にも同じような棚がある。この家のどの棚にも、同じようなものが詰め込まれている。唯一リビングその二にある、流し台の向かいの棚には食器が目立って置いてあったけれど、そこにだって小説や教科書が一緒になって並んでいた。
ヨウはソファ正面の棚の上に積まれた服をかきわけ、よくそこに腰をかけた。座った背面の壁にはなぜか大きくバツ印が描かれていた。住む前からあったらしい落書きで、意味はわからない。バツ印に耳をくっつけると、ミミの家の音が聞こえる。多分ヨウの家と同じで、収納になっている側だろうから、そこまではっきりとは聞こえなかったけれど、誰かがいるっていう気配はわかった。
耳をつけたままにするとベランダに顔が向く。外に置いてある洗濯機が見える。洗濯機の横、ベランダの手すりの欠けた部分で昔怪我をしたヨウの左手には白い傷跡がある。
夜になると、リビングその一から二にまたいで布団が敷かれて、そこには父親が寝る。テーブルの椅子をちょっと退けたところに敷かれる布団にはヨウが寝る。奥には姉が寝る。姉の近く、流し台のそばに置いてあるゴミ箱は、少し臭うし、蓋をして外に出されることが多かった。寝苦しいとヨウはよく家をこっそり抜け出て、階段の、二階から下に向かって五段目、経年で少し窪んだ段に体を横たえた。何年か経ってヨウが成長しても、体のカーブと窪みはフィットした。よく腕を下段に垂らして階段の側面を触った。たまに、「坊主、坊主」と上から声がしたが無視していた。朝になると母親がゴミ箱を室内に戻す。持ち手が指に食い込んで、肌には赤い線がしばらく残っていた。
この辺りでもっとも一般的な三階建てアパートの、二階の家に住んでいた。
でもそんな小さな家をミニチュアで再現して、死後もそこで暮らすなんて最悪だ。昔の人も同じように考えたみたいだった。だからミニチュアは、理想を織り交ぜてつくられることが一般的になった。将来はどんな場所に住みたい? 間取りは? どこで働く? 部屋には何を置く? 誰と暮らす? そういった人生の道筋を、家の造形に組み込んでいく。占い師の助言も借りて、人生の計画書としてミニチュアをつくる。今住んでいる家にぽこぽこと夢の家が合成される。できた建物には最後に立派な屋根が取り付けられる。そうして、出生時に厚紙で土台が組まれたミニチュアは、刻々と変わる顧客の意見を取り入れながら、およそ十年をかけて完成していく。
セオリー通りにつくるのならば、外壁や屋根の色は出生時に住んでいた家にならう。伝統を重んじる家だったら当然そうするはずだ。ただ、ルールが決まっているわけではなく、レインボーに塗ると決めた子どもや、金箔を散らす親だっている。ヨウに至っては、親ともども特に強い希望はないわけで、しかし変にくすんだ青色の屋根に納得はしていなかった。自分にとってもっと運命的な色があるのではないかと、決断を先延ばしにしていた。
「死ぬまでには考える」
ヨウはそう答えた。
「うん。それがいいと思う」
工匠は、新しい土台を丁寧に設置していた。作業の途中で、動く様子のないヨウをちらと見て言った。
「また使うのなら勝手にどうぞ。壊すなよ。一番下の左から三番目」
ヨウは頷いた。壁際の棚に駆け寄り、言われた通りの引き出しから小型カメラと、タブレットを取り出した。カメラは針金みたいに細く長いアームの先についていて、それが捉えた映像は、接続したタブレットの画面で確認できる。
アームをくいくいと曲げてから、ヨウは慎重に、自分のミニチュアの玄関にカメラを挿し込んだ。
タブレットの画面には荒く、ミニチュアの室内が映し出された。紙でできたリビングその一だ。再現されたソファと棚は、実物よりずっと材質の雰囲気が良く、綺麗だった。客人のつもりでヨウは家の中を見た。カメラを少し動かす。右側の壁、バツ印が描いてある壁にぽっかりと、ドアの形に繰り抜かれた穴がある。ヨウはタブレットの映像を確認しながら、手を器用に動かしてカメラを穴に押し込んだ。
バツ印の壁の向こうは、ヨウが十五歳になるころに家族と共に住むらしい大きな家になっていた。占い師は、ヨウが生まれたことで、ご両親にも幸運が舞い込みます、この頃には少し大きな家に住んでいますよ、と誰にでも言うことを言った。占いの結果に沿って工匠は、ヨウたち家族がいずれ住む家をこしらえた。
大きな家に入ると左側に、姉とヨウと両親の部屋の入り口が並んでいた。正面にはシャワールームとトイレがあった。壁も床も白く、大きな窓から差し込む光が眩しい。今住んでいる家から引き継いで据えられているテーブルや椅子が、洗練された家の中で浮いていて、もう懐かしかった。窓際には手前側に向かって上っていく階段があった。ヨウは窓から指を入れて、アームをもう一度整えた。カメラを階段の上へと滑らせた。
階段の先は二階ではなく、また新たな家の入り口になっている。ヨウが一人暮らしをはじめる場所だ。「国外の大学」というざっくりとした占い結果のせいか、どこの国とも特定しがたい内装になっていた。備え付けらしいごてごてしたクローゼットには、大人が着るようなビシッとしたYシャツがかけられていた。もちろん、シャワー・トイレ付きの物件だ。簡易キッチンもある。手狭ではあるが、暮らすには申し分ない。
ヨウは一度カメラを抜くと、ミニチュアの二階部分、一人暮らしの家の対面へカメラを挿し込み直す。続く家は、兵役を終えて無事就職したヨウの城だ。どこか知らない都会で大企業に勤め始めたヨウは、なかなか良い家に住む。座り心地の良さそうなワークチェアの魅力はまだわからなかった。どれがいい?と工匠に問われて選んだベッドはキングサイズで、枕が四個も置いてある。飾り棚には、最近叔父からプレゼントされた地球儀があった。前回こうしてカメラで訪れた際にはなかったものだ。嬉しかった出来事を工匠に話すと、時々こうして家の中に変化が起こった。
必要性のわからない観葉植物があり、その横にまたドアの形の穴がある。最後の家へと続いている。目が合う。
思わずカメラから手を離した。画角が崩れて、天井が映る。
気を取り直して体勢を整えた。玄関の向こうにいたのは、大人のミニチュア人形だった。こちらに目線を向けている。大人になったヨウだ、ヨウは息を呑んだ。ヨウのミニチュア人形の隣には、仔細こそつくり込まれてはいないが、笑顔のような表情を浮かべた女の人形がある。足元には犬。仲睦まじい二人が、これから犬の散歩にでかけるところのように見えた。
家はさらに豪華になっていた。絨毯、ホテルにあるようなランプシェード。次に、楽器店で見かけたことのあるレコードプレイヤーが目に入って、本当に音楽が聞こえてくるから驚いた。顔を上げると、工匠が小型のブルートゥーススピーカーから古めかしい英語の曲を流していた。
「おどかすなよ!」
ヨウの声に工匠は、なんのことだと一瞥してから自分の作業に戻った。
カメラ目線のミニチュア人形の自分を、ヨウはタブレットの画面の中に見た。口元に描き込まれたほくろが自分である証明な気がして、黒インクのしゃきっとした目に、見ているヨウの表情が引っ張られた。今、時間が経つほどに、この顔に成っている、と思った。隣にいる女の人の笑顔の口には歯が見えず、歯のないその人がヨウの頭の中で犬の散歩をはじめる。毎朝のルーティン。今は飼っていないが将来飼うかもしれないこの犬の過ごす場所は? 庭なんてこの家にあっただろうか? と部屋を見渡すと、犬用の丸いベッドがリビングの片隅にあるのを発見した。歯のない女の人が手に持っているものは、よく見ると犬のおもちゃであるぬいぐるみかもしれなかった。対してヨウは、トートバッグを持っていて、そこからは水筒と弁当が覗いている。キッチンの水切りカゴには洗い終わったまな板と包丁とフライパンがあった。ヨウか、歯のない女の人が弁当をつくったのだと思った。何をつくったのだろう。大きな冷蔵庫の中に知らない食材が並んでいるのを想像し、それらひとつひとつをスーパーで選び取る作業を想像した。おだやかな繰り返し。食材と、家の中にある調度品全てを購入した日々を辿ろうとして、途方もないと思った。自分の人生が完璧に終わるまでに、果たして時間が足りるのだろうか。妙な汗が出てカメラのアームが手の中で動いた。ミニチュア人形にぶつかって、パタリとヨウが倒れる。
壊した、と思って声が出た。声に反応した工匠が近づいてきて、ああこれはまだ固定していなかったから、と言った。
「なしにもできるよ」
工匠はミニチュア人形をひょいひょいと取り出し、自身の手のひらにみっつとも乗せた。
「一応、仮で置いてみただけなんだ。以前つくった人形のストックに君に似ているものがあったから」
ヨウは、今工匠の手のひらにあるそれが、ヨウを模ったものではなかったことに驚いた。
「なしにしようかな」
なんとなく、とヨウは言った。
「おっけー」
家からは誰もいなくなった。
挿し込んだカメラを抜きはじめる。最後の家の入り口までずるりと引っ張ったところで、入り口のすぐ左側、ひとつ前の家との間に、暗い空間が続いているのを発見した。家同士は単純にぴったりと連結されているのではなく、窓についた格子や室外機の都合で、噛み合わせが悪いままに繋がれている。そのために、路地、とまではいかない、不意の空間ができるのだ。
空間には不自然なほどに照明の光が届いていなかった。カメラは暗闇を捉えようと、オートで明るさを調節していた。タブレットの画面はグレーっぽく発光したり、ちょっとでも角度を変えるとまた黒く潰れていき、まだらに動いていた。ヨウはそこにカメラを向けたまま、しばらく黒の動きを面白く見た。
夕方の青さに包まれるとアパートの屋根はほとんど紫色だった。階段の一番下に座っていたら、ミミの母親がいつのまにか背後に立っていて、ヨウは「青でいいかな」と訊いてみたけれど、「いい、いい」と雑に返事をされた。それから「邪魔」とも言われた。ヨウはそこから動いて大人しく家に帰ると見せかけて、二階にいく途中にある、階段の窪みにまた体を沿わせた。外からはゴミの管理人のタバコの匂いが漂ってきた。
右手をだらりとひとつ下の段に垂らし、階段の側面に指を這わせた。そこには彫られた文字があった。おそらく文字だった。ヨウには読めなかった。時々指でなぞるたびに感触が違っていた。だんだん文字は増えているんじゃないかという気がした。彫ったのは三階に住む外国人の女の人だと思っていた。
その女の人が、三階からヨウを見下ろしている。一階から長い坂みたいに続いている階段の、一番上に彼女はいた。大きくはみ出た口紅が不気味で、あまり目を合わせていたくはない。その上女の人がヒッと笑ったので、逃げたくなった。でも体があまりにも階段にフィットするので、今日はもう動けないという気持ちでいた。
女の人は笑顔のままでいた。何も言わないで目を合わせている時間が心地悪い。
「青でいいと思う?」
ヨウは訊いてみた。彼女の笑った顔が瞬時に真顔になった。
「私に話しかけちゃいけないって言われてなかった?」
はじめて女の人がしゃべっているところを見た。普通だった。訛ってはいた。
「言われてるけど」「タコ女ってやつなんだ、私」「なにそれ」「タコで稼いでんの」「漁師?」「ううん」
女の人は腕をぴっと前に出して、手首をぐりんと回転させてみせた。腕から手首が外れたみたいに見えた。
「すごく柔らかいんだよ」
言いながら女の人は階段の一番上でうつ伏せになって、廊下のせまい横幅にぴったりと大きな体を収めた。階段が一段増えたみたいになった。
その時、階段を下から上がってくる足音がした。ミミだ。音でわかった。ヨウが体を動かして道を開けようとすると、女の人が静かに言った。
(そのまま)
女の人のささやきが階段を伝ってはっきりと聞こえた。階段から離れてしまうと声が聞こえなくなるので、ヨウは身を横たえたままにした。背中と階段がぴったりくっついて、間に挟まっているはずの、汗の染みたTシャツの存在を忘れた。綺麗に階段に収めきれない手足が邪魔だったけれど、遠くから見たら家のささくれ程度でしかないと思った。天井の汚れを辿って目が回りはじめた。その分、耳は敏感になっていた。右側からミミの足音がする。もうちょっとで踏まれてしまう。もしくは「邪魔」と罵られる。意識的に息を、殺した。待った。右側を上ってくる足音が、ふいに左に移り遠ざかっていった。跨がれた? 頭を持ち上げて視界をぐるりと回すと、ミミが二階の、彼女の家の方へずかずか歩いていく後ろ姿が見えた。
「うまくやった」
と女の人が言う、「うまく」「やった」の意味はちょっとわかった。ただ、ミミに無視されて跨がれただけな気もしていた。腑に落ちないまま階段にまた頭を預けようとして、さっきミミを見送ったばかりの二階から、姉がヨウを睨んでいることに気がついた。ヨウが階段になっている間、二階の一部になっていた姉は、この一部始終を見ていたようなのだ。
「ご飯だよ」
とむすっと言う姉は三階の女の人が怖いのだ。姉に手を取られ体を起こされた。家へ引きずられた。もうちょっとで家に入るというタイミングで、隣の家から悲鳴が聞こえた。ミミが飛び出してきて姉に抱きついた。
「へびへび」
「へ?」
「へびへびへびへび」ミミはほとんど泣きながら言う。「押し入れっに」
家の中にヘビがいたらしい。
「壁の向こうからやってきたんだよ、絶対ヨウの家からだよ」
とミミはなぜかヨウを責めはじめた。ミミが言う押し入れとは収納部分のことで、彼女が指す壁とはつまりバツ印のついたあの壁のことだった。薄い壁だと思っていたが、もしかするとヘビが居着くくらいの隙間があったのかもしれない。
ミミの家からは、彼女の両親が騒ぐ声が聞こえてきた。ゴミの管理人ならヘビを追い払ったり、捕まえたりしてくれるのではないか、とヨウは階段を駆け下りた。しかし、このような時に限って彼はいないのだった。
やがてヨウは自分のことを僕と呼び、それから俺を併用し、それから私と呼ぶようになった。あまりに屋根の質問を周囲に繰り返したせいか、当時の私は「アオ」と呼ばれることもあり、結果的に青を自分に一番馴染んだ色にしてしまった。当然、ミニチュアの屋根の色は青にした。引っ越すと占われていた十五歳になってもずっとあのアパートにいて、大学進学の年になってようやくミミと同時に出て行った。
アパートは老朽化に伴い取り壊されることが決定した。最後にひとめ見ようと、私は久方ぶりに故郷の土を踏む。
あいさつに訪れた工匠の倉庫は記憶にあるより小さかった。短く刈り込んだ工匠の髪に驚いていると、伸ばしていた時期なんてたった二年ほどだったと彼女は言った。
歳をとった工匠は、倉庫の奥のドア前に立ち、ゆっくりと手招きをした。ドア前の照明はついておらず、工匠の顔はぼんやりとしている。近づくのが戸惑われて、右足を前に出すのが遅くなった。繰り返される手招きにようやく従い、奥の部屋へ入る。簡素な小部屋だった。中央に置かれたテーブルの上に、私の青い屋根のミニチュアが置いてある。工匠は、かつてとは種類の違う小型カメラをエプロンから取り出すと、私に手渡す。簡単に画面キャプチャもできるのだと言う。
私は全ての懐かしい家をカメラに映す。見えないドアから登場するゴミの管理人や、どこからか「坊主」と呼ぶ声、タコ女、泣き叫ぶミミの思い出がまったく刻まれていない家たち。工匠が施したエイジングが微かに記憶をつつく。家と家との間の暗闇を発見するたびに、そこにヘビが居着く可能性を探る。
据えられた洗濯機のミニチュアを見て、私の左手に傷をつけたベランダの手すりももうなくなるのだ、と気がついた。あとでアパートに寄った際には、階段に彫られた文字だけは確認しようと思った。確かにあったあれを指でなぞりたい。今だったら意味もわかるかもしれない。その後は取り壊してもらって結構だ。取り壊す、という言葉を頭に思い浮かべた瞬間、かつて階段に沿わせた背中が少し動いた。