盲腸の静かな夕べ

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日記 『クリーン、シェーブン』雑感

 ロッジ・ケリガン監督の『クリーン、シェーブン』をみた。ノイズミュージックが使われているという認識のみで観に行った。あまり情報を入れないでいて結果的によかったと思う。
 ちなみにノイズまみれの映画ではあったが、ノイズミュージックが使われているわけではなかった。ちゃんと作曲家もついていて、数カ所音楽ものせられている(日本の公式HPだと音響監督しか載っていないが)。なので、基本的な音響効果は統合失調症の主人公・ピーターが聞く音と一致しつつも、すべてがそうであるわけではない。音は場面により細かく調整されていた。

 道には、家には、なんと音が溢れていることかと思う。最初の方のシーンですでに鳥さえずりすぎ、犬鳴きすぎ、子供の声うるさい、と感じる。普段の生活では耳が勝手にシャットアウトしてくれているものたちが映像にのると、情報として浮かび上がり殺到してくる。整音されきったものとは違う肉厚なアンビエントは私にとって、不快ではなくむしろ喜びとして耳に入った。途中さし挟まるラジオノイズさえも面白く感じた。

 不快度MAX!というどこかのサイトの煽りとはうらはらに、不快さゆえの興奮はない。ノイズはストーリーを物語る役目を担い、そして血が出る場面ほど切実だ。そして映画全体を覆うのは、奇妙な雰囲気。ピーター周辺の人物のセリフには意味の飲み込みづらい要素があったり、違和感のあるシーンに関しては、ピーターを追う刑事サイドの方が多いのではないかという気さえする。特にあの、唐突な強盗シーンはなんだったのだろうか。刑事が言葉を発することなく終えたあのシーンの、強盗のセリフは映画のラストで再び響く。もしかすると、ピーターが脳内で聞く言葉も、いつかどこかで聞いた言葉の反芻なのかもしれない。

 映画の本筋とは関係ないのだが、こうして書きながら『ダークマスター VR』のことを思い出している。庭劇団ペニノが2020年にやったVR演劇で、観客はVRゴーグルを装着し、そこに映る映像を鑑賞しながら演劇を体験する。観客は主人公の一人称視点で鑑賞しつつ、耳に装着したヘッドホンから「マスター」の声をきく。「マスター」は姿はみせず、音声のみで主人公に指示を出し、指示通りに主人公は行動する。こうなってくると、「マスター」の声をききながら、視点を主人公と共有する私は一体どこにいるんだろうという気持ちになる。他人が脳内に直接語りかけ、そして自分の体を制御できないという状態。「マスター」たったひとりとはいえ、他人の言葉が侵入してくるとこうも自分の立ち位置が不安定になるのか、と思ったような気がする。
(『ダークマスター』の原作漫画はkindleなどでも読めます。)

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