盲腸の静かな夕べ

文章を投稿します。

記事カテゴリー ▼

日記:音楽は体験できるか

 現代美術館に、クリスチャン・マークレー展をみに行った。現美でやっている展示が確か気になっていた気がした、という薄すぎる動機で出かけたにすぎなく、マークレーのことはほぼ知らない。そういえば美術館に予約をして向かうのもここ2年の新しい慣習で、すっかり慣れてしまっていることに少し驚く。
 最近、多和田葉子の『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』を読んでいたこともあり、展示の副題である「トランスレーティング[翻訳する]」というのを重要なものとして捉えた。しかしなんだか、うーん、あまりハマれなかったというのが正直なところだ。
 一部の作品は、聞こえてくる音、を強く想起させた。頭の中の小学校の先生が、「じゃあこの作品をみて、どんな音が想像できるかな?」と語りかけてくる。自分が想像できる範囲の音楽なんてつまらないものに決まっている。作品が音楽を聴かせるためのメディア(スコアのことか)になるのではなく、音楽そのものになっていることを私は期待していた。
 「アクションズ」や「叫び」という平面作品は面白かった。「アクションズ」はそれがつくられている時の運動を想像させた。自然に飛びちる色と、その上に押し当てられた版画部分、違うアプローチで作者が身体を動かしているのが生々しく分かる。私にとって音楽は、身体が反応するもの(踊ったり、逆に目を閉じて深く聴き入るとか)なので、身体を感じることは音楽体験に近くなりそうだと直感した。「叫び」はみていてしばらくして、やっと版画の木目の異様さに気がついて面白くなった。コラージュであることは施行の回数を表すのだとも思った。
 ろう者が手話で音楽を表す「ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)」も、まさに身体を使った音楽表現だったが、これに関してはかっこよすぎるな、と違うものを感じた。手話でパフォーマンスをする女性が一人映っている映像作品で、その女性の身振りがとてもスムーズでかっこいい。もしかするともともと身体表現をやっていた人ではないかと勘ぐった。素人バージョンとみくらべてみたい。誰にでもその不十分かつ満ち足りた翻訳が可能なのか(多分できるのだと思う)。
 作品解説が配られていて、これがかなり詳しい。これはこれでいいなと思う。

カテゴリー