盲腸の静かな夕べ

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2024-12-3

Aに大根をあげる。代わりにわさびをもらえた。ついでに一緒に「ドリーム・シナリオ」をみる。面白かった!Aにははまらなかったようで、確かにそれはわかる(新興ベンチャーが意地悪く薄っぺらく描かれすぎ、とか、プロット以上の魅力的なセリフがあったか?とか)けれど、最後の流れが切なくて、例えば「夢だったよかったのに」とかそういうものの亜種の最後のセリフに結構感動してしまった。あとはニコラスケイジが結構好きなので……
文フリで買った「怪談に至るまで」、若本衣織さんは前の怪談本でかなり好きだな、と思ったが、もうこの随筆では文体が好きすぎて、うわー久々に文体が好きだと思った。かっこいい。
ふうらい牡丹さんや蛙坂さんの書いたものは、「生きる演技」などを通して考えると、生そのものにすでにフィクションが組み込まれてしまっているという現実を思う。宿屋ヒルベルトさんのも面白かったから怪談本を読んでみたい。
文フリ、普通に金銭に余裕がないので買い控えてしまったが、どうせあとで買うので買っておけばよかったというものがいくつか。しかし一気に金を使ったり、物品を増やすことが性格的にできない。京都でいくつか手に入ればいいが。

よくわかるメタファーつづきのメモ
第二章分けて考える、は、言語学ラジオでみたことあるやつで、分かる、は分ける、ということだということ。(そういえば、鈴木捧さんの「くじらから始める」の認識の話でもこういうことが書かれていた)分けることが認識のはじまりだ。
大三章 形の比喩(ーー存在するものは、どのようにして存在するに至るのか?)
「考え」が「ある」という表現はすでに存在、のメタファーである。
「日本語の「なる」という言葉は、発生・変化・感性のすべての相と結びつく。」
「実態が明らかになった」は、「実態の解明」という「こと」が(ない状態から)変化してできた、もしくは発生、または完成したと捉えられる(自動詞の場合発生、他動詞の場合完成)(英語でいうと「form」に相当する)。
formless、という表現は、形のない(漠然とした状態が)ある、という表現に使われたりする。
「「存在するものは、どのようにして存在することが確かめられるのか?」」
「形をもって存在するものは、人の「認識の視野」に現れることによってはじめて認知される」
英語の場合、apear、come、visit / emerge surface…などの出現の動詞は日本語で「来る」「現れる」「表面化する」または「降り掛かる」といったように訳せる。
ここ、言葉の上での話であって、実際に認識の視野に入ることとのズレを感じはするのだが、、とりあえず読み進める。

<ものの出現の局面>
素材が集まって形をなすプロセスには、素材の他に、行為者、道具、場所の手助けが必要である。(「ものは一般的に、行為者が、ある場所で、ある道具を使って、素材にある作用を及ぼす」)
その形が認識主体によって認知を受ける。ものが形をもった存在だと認められる。
<ものの存続の局面>
出現したものが認識の場にとどまる局面。
exist, present, stand ,sit, resist, hold, fix, supportなどはものの存続のメタファー表現に利用される。(日本語だと存在する、立つ、耐える、支える)
<消滅の局面>
ものが移動して認識をはずれる(消える?)以外にも「倒れる」「崩れる」といった言葉がメタファー表現に使われる。

「理論が崩れる」という文をみてみる。「崩れる」だけがメタファーなのではなく、「理論」が建造物に例えられるメタファー思考を経由して、建造物としての理論が崩れるのである。
「もの」以前の混沌が分けられて、形をなす際に使用される(と決められた)言語によって認識され、「もの」はメタファー思考を経由する、ということかな。流れ。
もっともありふれた形として、子宮、器、家、という「入れ物」が並べられていたが、これらが平然と並べられることに直感的にはそんなに違和感ないけど、それが「もっともありふれた形」なのはわからなすぎるという感じ。なんかもっと、石とかあるじゃん、、いろいろ端折っているのは仕方がないが……


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