2024-11-27
たぶんもうほとんどゲームできたが、今更気恥ずかしさも出てきており、なんとなく先延ばしにしているが、こういうのはどうせ何にもならないのでさっさとアップしちまうんだよ!という気持ちももちろんある。反おしゃれ心と、しかしおしゃれなもの残した方が良くない?という心。雑さを愛しているのにまだ他人の目が気になる。かっこいい雑がやりたいんだろうな、あの、100ドルとかで請け負ってゲーム制作している人みたいに……。
ひとり用のホットカーペットを買って快適。自動で消える機能がついてる、無印のやつ。
tele5できました。今回の自分のデザイン気に入っているのでよかったらみてほしい。巻末におすすめ怪談(一部youtubeでもみれるはず)ものせました。
bfcを経て、象徴、メタファー、寓話、そこら辺への姿勢を考えたいなと思い、「よくわかるメタファー」をとりあえずよんでいる。面白い。ダイレクトに次に書くものにつながりそうで、勉強になる。しばらくはこれを読みつつ、あとは海外ホラーとかは趣味で読もうかな、という最近の気分
序章 ことばは誰のものか
「頭や首は、体の下部に表現を与え、たとえば『手首』や『膝頭』という表現を生む。〜頭や首は表現を貸す側に回っても、ふつう借りる側には回らない。〜流れは、体の上から下であって、その逆ではない。」
右や左ということばをもたない言語がある、というのは普通に知りたい。井上京子「もし「右」や「左」がなかったら」という本が紹介されている。
「一般的に空間のことばあ、具体性に富んで、わかりやすい。その空間の中心に、認識主体としての私が存在する。」
「ことばはまぎれもなく自己中心的である」
「あげる」「くれる」の能動と受動の言葉は、しばしば「私」が例えば身内の人間の側に立つことで変化する。あなた→あげる→第三者 という構図が、あなた→くれる→私の妹、となるように。この時「私」は「妹」の側に立っている。「私」という中心は移動する。
「人称代名詞は、人に特別なステータスを与える。」
エスペラント語の普及の失敗というのは、(自民族=私的な)中心がなかったからかもしれないとのこと。
1、ことばと物(これを書くと、「フーコーより健康!」って言ってた人を思い出す)
この世にあふれる「もの」を、「物」(具体)「モノ」(抽象)にわけるというのは、え、そんなんでいいの、という気がするが、その後を読むに何かそういう考え方があるっぽい。
「もの」に対して「こと」もあり、こちらは行為を示す。しかし、「こと」は出来事となることで、時間的な区切りが発生し、「もの」化する。
「私たちは、物とモノとを分け隔てなく語り継ぐことによって、ものの世界を豊かにしてきた。〜光も闇も天も地もすべて「もの」である」
関係値の中だけでなく、「すべてが存在する」。それを素朴な実在論として、ソシュールの主張と対照的なものとして書いている。