盲腸の静かな夕べ

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2024-9-29

「現像世田谷区桜上水09.2024」をみた。自宅から歩いて30分強くらいだったので会場まで徒歩で行く。民家を舞台にした演劇。好きな怪談作家らがコメントを寄せていたので気になって、ワクワクしながら見に行った。私たち観客が集められたのは降霊を見届けるためであるというモキュメンタリーっぽいレイヤーがまず第一にあり、いなくなった姉が撮った映像(これは観客には提示されない)の再現の映像を撮る、という構図で物語がはじまる。会場にはカメラがセットされテレビには映像が映し出される。テーブルの四角に水をいれたグラスを置き、さらにその周縁である部屋の四角には蚊取り線香を置く。舞台の中心となる一室は上下両側が出入りできるようになっていて、ぐるりとまわりこめるつくり。スクエアを想像する。テーブルの中心には割り箸を割って積んだものを置く。
姉に過去に起こったできごとが、モキュメンタリーとは違うレイヤーで、怪談という形で、マイクを用いて語られる。
混乱する、と思ったのは、(姉の映像の)再現をしています、という話ではじまったと記憶していたが、実際にこの家に出入りしていた弟(語り手)が覚えていた姉、の再現をしているように見える箇所が多く、また、弟は姉一家の人物像について「こういう人だった」と自分の記憶から語る。だから、姉が撮影していたという映像についての印象がなく、中心が空白のまますすんでいるような感じがした。このあたり、儀式(?)の再現はするが映像の再現をする、とまでは言っていなかったかもしれない、勘違いかも。
姉の夫が娘を探して歩き回るシーン、あれは過去の映像を弟が2024年9月現在に再現しているようにもみえるが、同時に、役者がその当時の夫になっているようにも見える(あのシーンで娘を幻視する体験ができたので、よかった、あと奇妙にななめに配置されたカメラがおしゃれでした)。実話怪談語りパートがあったせいもあり、複数のフィクションをこの場所に重ねているという前提があるから余計そう見えるのかも。だからこそ、当時の夫に起こったふたりの娘の幻視を、弟も反復してしまうという、一人芝居だからこそ起こる呪いの引き継ぎみたいなことが最後に起こる。
めちゃくちゃいいなと思ったのは、弟が姉について語る時、やたらと小ささを強調するところ(手で示すサイズが女児サイズ)。「ぼぎわんが、来る」のモラハラ夫みたいな片鱗を微量感じる弟を前に、小さな娘ふたりに並んで、小さな姉がいるのを想像する。これに関しては明確な答えはないのだが、無性に厭な感じがあった。
怪談の語りの中では、「」つきで他人のしゃべりを模倣、再現するということはほぼ確であると思うのだが(落語みたいな感じで)、「現像」では、自分以外の人間の声を再現しない場合と、再現する場合が混在していて、わかりやすい形で演劇と怪談語りをミックスしている?みたいな感じになってた。
なんとなくみながら「反復かつ連続」を懐かしく考えていたのだが、ああいう一人芝居で複数人を本当にやってのけてしまう、みたいなものと違い、「現像」は語り手を常に引き摺りながらやっていたと思う、それで最終的に彼が語られる側(見られる加害者/怪異)にまわってしまったのか、最後の方とか全然わかってないんだけど。
今やってるこれどのレイヤーの話?という混乱と、演じ方の混乱と、氾濫する怪異とがあって、怪異の語り方や、最後にモノを物理的に出したことに対して思い切り称賛したいと思う一方、ひとつひとつが映像的な印象であったりして、いま・ここで、この瞬間に降霊が行われたという実感は薄く、細部を楽しむという観賞に落ち着いた(そんで、一番良かったのが小さい姉の説明部分だったと感じる)。
ギャルの「待って」にマジで待つ、とか、そういう生活習慣を持っていたのかと驚くスムージーとか(あれには氷は入っていたのだろうか……)、そういうひっかかるところがよかった。
間伸びさせずひたすら語るスタイルなのも素敵だった。
娘幻視パートに関しては、今思ったが、この前みた破壊ありがとうのコントと同じ仕組みかもしれない…

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