2024-6-8
新宿のプレミアムな映画館へ行き、ヤンヤンを見た。値段にびびっていたので、Fさんを誘った。映画館でポップコーンをたぶん20年ぶりくらいに食べた。長い映画の間ずっと食べていた気がする。ヤンヤンは、物語や映像が、自分の見えていない部分をうつすことに素朴に感動した。そして見えていないところで必ず悲劇が起こるわけでもない。台湾行く前にみられてよかった。この映画館でマッドマックスとかみれたらいいだろうなーとか思った。上映前に坂本龍一が「音にこだわりました」みたいなこと言っていたし。Mちゃんは今日マッドマックスみたって。
「消しゴム山」みるか悩んでいて、高いしいいかなーと思っていた。Oがコロナになったらしく、Oがもしチケット誰かに売り渡したいと言ったら行こうかなとか思っていたら案の定朝に連絡がきて、そんならと思って行くことにした。行ってよかった。
最後までたっぷりとみていたら、あれこれ火の鳥みたいな話だったのかなという感じになっていった。
今書いている小説について考える中で、確実に時間というものがキーになってしまっていて、それとの共通部分に勝手に興奮したりもした(第二部の後半?のとこ)。
バラエティ豊かな穴の描写が良かった。
物が次から次に入れ替わり立ち替わりすげ変わっていくところは、あれも〜消しゴム道(どう)〜による即興らしいが、縦に長く造形されるので、やっぱり人間ナイズされていく方向になりそうなんだけど、元のものもちゃんと提示してるからセーフという認識なのかな(もうこの辺は見た人しかわからん書き方になっているが、あしからず)
植物みたいに乗り替わった鉄の話が最後の方に出てきていた。
あの、観客も照明に照らされる中で、フレキシブルでないために捨て置かれたモノ/ひとの話の場面。モノ、ってのはまず、柔らかくない(材質としては柔らかいものもあるけど)。フレキシブル、易々と変化できること。それがいいことってわけでもないのかもな。モノがフラットになったからといって、別にそれがいいわけではなくて、フラットになれないものがでてくる。それを無理やりフラットにしようという話ではなかったはずだ。倫理的にそのはずだ。
舞台上のモノを移動させる最後の場面、コンピューターゲームみたいなものの移動のさせ方だなと思った(どうぶつの森とか、レイトンの部屋レイアウト、ダーククロニクル、がやった中では思い出されるけど、マイクラとかもそんな感じ?)。コンピューターゲームでは物の移動の時間は省略されている。ゲームの世界ではフラットがすごく容易いなと思う。ゲーム制作の段階では、時間の経過すら人の手で設定しなければならないし。
じゃあ現実がゲームみたいであればいいのかっていうとそうではなくて、そうはいかないし、そもそも体がある。
ものすごい時間が経って、人間がいない世界(変化した世界)に到達したら全部フラットに、平等が存在するのか。最後の方はそんな描写になっていた気もするけど、、(「観客はいなかった」とセリフが繰り返される。人間がいない、という意味とずれてはいる)、でも長時間スパンの考え方自体が人間の限界であるとセリフにもあって、だからこれは安易かもしれないという留意がある。
ものが人間に、人間がものに、というわけではなく、両方の歩み寄りの環境を用意するという感じがした。
やっぱり現実の問題として捉える上で演劇ってのは有効なんだと強く感じる(ゲームとの違い)。
あの政治家?の部分はなんだったんだろ、あの超人的なセリフは人形みたい。ウケたけど。言葉が空回るほどに何への対策かわからなくなる。
アフタートークで言っていた金氏さんが言っていた「みんなで違うことを考えようとした」というようなことがよかった。