盲腸の静かな夕べ

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2024-5-24

久しぶりに呪怨ビデオ版をみてみる。見た当初は本当に怖かった記憶があるけど、まあ確かにすごくいいんだけど、好きなシーンとして覚えているの、あれは劇場版っぽかった。劇場版のどれだ。
昼間少し遠いスーパーへ向かうと、走る青年がおり、スーパーから帰っていると、走っていた青年がKFCのいくつかの食べ物を下げて戻ってくるのにでくわした。複数人分だろう。今日はかなり暑いのに、しかもKFCはそこから20分くらいはかかる。彼の家を知らないからわからないけど、もしかしたら30分の可能性もある。大変だ。
「教育装置のある生活」をひととおり読んで、最初の「新しい生活(表現)様式としての「日記」」をもう一度読む。日記は「書き手自身の内面とテキストのあいだの結びつきを前提としている」、そこから、日記が構成要素としている自叙伝について、ド・マンを引用しながら説明がなされる。自叙伝とそうでないテキストの区別は不可能である。なぜなら「自叙伝的要素は書き手と読み手という《二つの主体間の連合》において、あらゆるテキストから絶えず見出されてしまう」から。これは日記にもあてはまるという。自叙伝と日記を形式的に区別するものとして「日付」の存在が重要になる。ただ日付は必要不可欠なものではなく、なしでも一応成立はする。詩における改行のように。しかし改行が詩を「詩のようなもの」にするように、日付というフォーマットは役割が媒体概念(これは雑にジャンルと言い換えてもいいのか)と近しい機能を備える。「書くという行為のただなかにおいて、私たちは具体的に選ばれる言語との関係、具体的に選ばれる表現ジャンルと関わりながら、みずからの思考を変形させていくのだ。」とりわけ日本では「教育装置」としての役割の強い日記は、「書き手の生を標準化し統一的な視点へと動員させるような機能が組み込まれている」かもしれない。日記は、書かれていない書き手自身の周囲の情報が動員されていくような読みを読み手に強いる。「記述がそれ自体では自律できない「貧しさ」を持つ」(書き手と記述の癒着が激しい!)。その上で可能な表現とは。いくらでも想像可能な書き手の「リアリティ」を利用する方法とは。
すげー雑に最後の提案前くらいまでのまとめ。(脱主体化、というのが最後にキーワードになっていたけど、詩のそのあたりの話、本当に知らない)
夜は小田尚俊さんの演劇『理想郷』をみにいった。僕はラーメン二郎みたいな濃い味の演劇しかわからないんで(ポツドールとか)と言っていた(し、前もそんな話をしていた、その時はヒルナンデスを引き合いに出していたと思う)。会場の水性はとても良く、商店街の雰囲気もよかったのだが、なんといっても少々パニックの自覚のある私にとっては、外が近い、見える、そして途中退出可というのが最高だった。観客も舞台の一部として物珍しげに見られるのは少々居心地が悪かったが、まあ仕方ないという範囲。外からどう見えているのだろうということも想像した。登場人物の、オールインワンの女性は、最後は自分で言った「許す」ことができなかったから幻想の「理想郷」から立ち去ったのかなと思った。首絞めも許せばその場に一緒にいられる。子を見捨てた人は「理想郷」から離れないのだろうが、それでも、その場から離れた人たちと対して変わらないのでは、という感じもしつつ、最後に去っていった人は借景もあり、それでもやっぱりちょっといい感じに見えるのは、「理想郷」とされた場所が、他者がきちんと他者としていない、地獄めいていたからか。
はっきりとモノローグとダイアローグでわかれていて、モノローグについては、やっぱ過去をちゃんと説明しないとわからないから、という意味で使っているようだった(このあたり誤解があるかもしれないけど、そんなようなことをアフタートークで言っていた)。不透明なところをなくしてつくっていくスタイルなのに、あの形におさまるからやはり不思議だと思う。久しぶりに見られてよかった。

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