盲腸の静かな夕べ

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tele- vol.2 各作品の感想

 映画美学校言語表現コース、ことばの学校一期生有志でつくっている「tele-」という合同誌の第二号を、先月の文学フリマで販売しました。お手にとって下さった方々ありがとうございます。
 私も執筆者の一人(「依田」という作品を封入しました)として参加してはおりますが、tele- vol.2収録作品についての感想を書きました。

 
 本題に入る前に少しだけtele-について説明を。tele-は執筆者が各々テーマに沿った作品をつくり、それを封入するというスタイルでやっています。なので、執筆者同士もそれぞれの内容についてはざっくりとした傾向や形式くらいしか知らず、封筒につめる作業日にならないと実体を確認できません。このあたりは性善説で動いており、このような内容を載せて良いか、どうなのか、という話は執筆者の申告により個人間や全体で話し合いが持たれる形になります。
 かといってテーマについて話さないというわけではなく、雑談をベースに、今回は「散歩」について意見を交わしました。参考にした書籍情報やサイトの共有も。それ故に作品の中には、雑談のエッセンスが多分に含まれているものもありました。
(*私が不参加の共同企画、「散歩談会」に限っては、相互校正も行っていたようで、また違う進行がありました)
 つまりは、編集者というものを設けていないのがtele-の大きな特徴になっています。
 これは私見ですが、結束するな、社会を……社会をつくるな!という感情が結構強いので、この形はぜひ続けていってほしいなと思います。もともとがある一定のくくり(ことばの学校)で囲われている集団で、それをある程度のこれからの時間保つためにもtele-は機能していますが、連帯はせず、矛盾を抱えたままできるだけバラけたままでいたい。ただ、まったく取り決めが不要というわけではないし、自由さが今回制作進行に名を連ねている方々への負担ともなっているので、最低限のガイドラインなどなどの整備は今後も進めていく必要があると感じています(と書きつつ、私自身3号への参加はまだわからない)。


本題です。各作品を読みました。たぶん読んだ順。

池谷和浩「最後の散歩」
「同時に」見た「丸くなっている」猫が、その数行先では、今やもういないものと書いてある。急にああ、これは喪失の話か、と気が付きタイトルに戻ると「最後の散歩」である。最初の段落や出張の準備にある、年数をかけて築かれた夫婦間の感情の妥協が、替えのきかないものに思える。
日記が導入され、それが書かれた時間と、それを読み返す時間が同時にはしり始める。さいごの二文によって、穏やかな時間に導かれて読み終えた。逃れられない時間の流れに、小説は逆らえると素朴に信じているから、これが暖かい最後だと思えるのだ。

雨晴嵐「散歩ならざるものたち」
「その足で歩くことは、声を上げることなのだった」
「声」、は足のない彼女の主張であるわけなのだが、それには「話し合っている」「たくさんの人」の思いが収束している。収束している、という表現が的確なイメージをみせる。その収束の中に「彼女を思い出す」にっしーの思いも含まれていると思うと、あながち散歩失敗ではなないのかもしれないと感じる。
(読む順番わからんけど)ひとつめ、「足がない」から、「足(車)がない」につながる二篇目では、優しい描写が続くのに、どこか異質な空気感をずっと感じる。嫌なわけではないが、異和は少しある、という微妙な空気がリアル。それが三遍目でもっとぐっと、自分が異質側に容易く変わってしまって、やはりこれも嫌という感情とは少し違うけど、なんかこの町合わんなあという非難するレベルではない居心地の悪さを思い出した。ジャンボタニシの卵って、スタバのメニューがそれに似ているという話題の時に知ったけれど、自然界にたまにあるそんな色をしているんですか!?という衝撃をもたらしてきますね。
全て散歩に失敗したエピソード、というようにあって、しかし私にはひとつめが結構ポジティブに思えてしまったのもあり、全体をどのように考えて構成したのだろうと気になった。

高田麦「ぐるぐる歩く(進んでいない)それがいい」
一番笑った。()内のつぶやきみたいな補足が友達としゃべってるみたいな感覚になるのかも。文章でこれだけ素直に「気がついたら、好きになってしまった」って書けるのが羨ましい。他人から見ると奇妙である、好き、という感情をこんなにハッピーに読めて満足です。これ読んだ親しい人たちで集まって自身の恋愛ソング発表会をやりたい。人と話したくなる文章。
どうでもいいけど私にとって「One more time, One more chance」は「月とキャベツ」の方です。

一野篤「サイトフレーバー」
「サイトフレーバー」って言葉があるのか? と思って検索するとタバコのフレーバーかサーティワンが出てくる。では、と思って Twitterで検索をかけたら……
コマ割りが道だとすると、どこから出発したのだろうと考えて、やはり「立ち上がる」のとこかななどと思う。お気に入りの文字は「地形のせいで遅刻」。誰かとの会話のような断片は他の断片とも容易く結びつく。その誰かって事故や攻撃でばらばらになったり、歩く日が違うってことでばらばらにされた自分自身の体だったりするのかもね。
見た目がかっこいいのでしばらく飾らせていただきます。

徒然迂廻
夢中、なら身に覚えはあるけれど、没入、というのは私にとって結構むずかしいこと。読書という行為がある人にとってはこのように作用することがあるのだろうなと感じながら読んだ。小さな冊子にされているので、本を購入した作中の者とページを捲る手が重なる。本文の最後のひとめくりで私はここから抜け出せるけれど、置いていかれた語り手の存在(が消えたの)を感じる。むしろめくり、読み進めたせいで語り手を消してしまったというか。
ジェームズ・タレルの、窓、ひいては出入り口のイメージから本へと分入る言葉の配置が良いと思う。本の質感から淡々と続く描写はどんどん不安を呼ぶものになり、最後には「線状の絶望」に至る。線状、の感覚はとっさに視線を思い浮かべたけど、続く言葉が「戻れなくなっていた」だから、何か縛り付けられるものを連想するのがふさわしいかもしれない。繊維?

不浦暖「無機的なものの歩行様式」
何が終わりはじめていたんだ……!
「最後の散歩」とは違い明示されない終わり。死体という言葉に喚起されて霊的なことを考えてしまう。語り手は、風が吹けば会話が聞き取れなくなる程度の距離感で、そして「あるいは」を多用するように心理的にもやや離れつつ、「あの人」を執拗に見る。「あるいは」について触れると、最後のページの「あるいは」は全て省いても成り立ちそうな文で、何か他の可能性を提示するのではなく、情報の補強に徹している。つまりは、語り手の距離が「あの人」にぐっと近づいて、他の心理の可能性を排しているように思える。例えば女の不在を埋めるように語り手がその場所に近づいていたりするのか……というのは拡大解釈か。
不浦作品に今まで出てきた砕けた破片が、今回は破かれた紙として現れたのかと思いつつ、他にも魅力的と思ったテニスボールの往復のイメージも、どう捉えていいのかわからないというのが本心。いいからいいんだよ!で良いのかもしれないけど。
不浦作品に出てくる人、めちゃくちゃシンプルでシックな家に住んでそうというイメージがある。皿は多分白いプレート。他にあまり物はないのに花瓶はありそう。作品内に登場するものは色とりどりなのに、その色彩が温度をもたないためカラフルな感じがしない。

カキヤフミオ「散歩するテンセグリティ」
雨晴さんはこれ写真にとって反転させて読んだと言っていた、笑
反転させた文字を、ひとつひとつ確かめるようにして読む。簡単な仕掛けであるが故に、素直に、わあ、外国語みたいだと受け止められるのが我が身の感覚ながらあっけない。
少し前にスラムをリポートするカップルのyoutubeをいくつか見ていたのだが、そこでは、遊牧民の者たちが都市に流入してきて、しかし家畜は捨てられないので、都市の中に家畜エリアを設けていた。住居の屋上に突然動物のエリアが現れるのだ。その町は違う生活様式がぶつかっていた。生活様式を町に導入することを厭わなかったという言い方もできる。
成長にともなって、生活はいくらかマシになってきてはいるが、そもそもあまり出歩かない自分の体がどんどん移動に適さなくなっていくのを最近時々みじめに思う。固定化されてしまったらそれはテンセグリティとは言わないのだろう。とりあえず最近やっているランニングは続けよう!

かずさ「アンドリューのために」
何かコンプレックスが、物語によって取り払われる、、というフィクション勧善懲悪には全然ならないのが良い。背中のぼんぼり(ぼんぼり、という言い方も非難めいたものがない)にはある程度成長とともに対策が講じられて、嫌だなあという気持ちと共に、しかしそれだけが生活ではないので、友達と遊んだりして生きている。クッキーをあげていた思いやりが、可愛らしい表紙イラストからは想像もつかなかった事故を呼ぶ。突然失ったぼんぼりの痛手はあまりないのかもしれないが、連鎖的に失われた犬の仕方なさが、さいちゃんにとってまだ手の届かない大人の速度に感じた。

藤野「武蔵野散歩同好会」
「武蔵野」を読んでから再読。
藤野さんの作品はいつもあたりまえを取っ払って存在しているので、普通に生きていたらぶつからなかった異物として本当に楽しい。「散歩人」という言葉が「散歩犬」と並んでとても特殊めいて見えてきて、散歩人ってなんだよと思っていると、共同企画の「散歩談会」の方でもその言葉を使っていて、ああ、散歩人ってこの世の言葉か、と思った。
「埋まってしまうと」「どこに行くのも不自由しない」という仕組みに常識的な観点から疑念を抱き、同好会なるものへやや恐怖を感じる。しかしコメちゃんは自由に歩いた果てに土へと埋まり、おそらく同好会の中でベテラン散歩人となったであろう私も土に埋まり始める。結局は遅かれ早かれの話なのだろうか。ただ最後が「まだ歩き足りないよ」で締められて、散々書かれた歩くことの感動がもう続かないことが切なくなる。埋まることはいいことなの?


(途中、植物の名前が連続して書かれるところで拙作について少し考えた。私の書いた「依田」はベンヤミンの「日を浴びて」というエッセイが根底にある。「日を浴びて」の最初の部分に、

聞くところでは、この島には十七種類の無花果があるという。その名前を——日を浴びて歩み続ける男は独りごちた——知っておかねばなるまい。島に貌と声と匂いをあたえている草や動物、山脈の地層、地表の、(中略)土壌の種類を、ただ見るだけでは十分ではない。何をおいてもその名前を知らねばなるまい。

 というのがあって、最後まで読むと、結局これはシニフィアン的なことではなくシニフィエ的な「名前」、ということなのかなーと解釈していたが、ただ名称がこの「武蔵野散歩同好会」の一節のように並んでいるだけで全然道の解像度や見え方は変わるよななどと改めて思い、揺れています。)

「武蔵野」ではここからここまでが武蔵野、と明友に定義される箇所があるのだけど、そのようにいろんなものが、人体までもが武蔵野ストリームに取り込まれていくという、ほがらか怖い話であると思った。

大谷叶「広がる」
選曲のギャップがえげつなくて笑ってしまう。これも「ぐるぐる歩く(進んでいない)それがいい」と同じように、あなたの散歩曲、というか、あなたが独り歩く時にひたりながら聴いてしまう曲はなんですかと聞いてみたくなる。
散歩とは無目的なものではないのか? という話は「最後の散歩」などでも触れられていたと思うけど、「武蔵野散歩同好会」の「本当は別の目的を持って歩き出した結果が散歩に昇華してしまう」という言葉が言葉にされて本当によかったなという感じがしている。
歩く速度の違いって自然と気遣いが含まれるので関係性が表れてきますね。私は、鈴木さんの歩く速度って気遣わなくていい感じがいいですねと褒められた過去があります。

高橋慧丞「はなす?」
時間の経過を散歩の道程として捉えるみたいな試みに思えた。下段がタイムライン(道)で上段がその時の会話・思考の断片・ものの配置なのか、そうなると上段を散漫に捉えすぎてるかもしれない、うーん。
下段は、最初見たままの描写なのかなと思っていたら主語は変わるし、スマホの画面といったクローズアップした描写もあるしで、全然違うルールがあると分かる。対岸からの定点観測ではなくカメラは移動している。『残酷で異常』という映画があるのだけれど、あれにあった視点移動の場面を思い出した。
上段、見回すと木や植物や、広場で遊ぶ人があって、会話もあって、それらが同一の面にマッピングされている。図っぽくなるのは拙作もほんの少しそういうところがあったのでちょっと共感。宇宙人の話にはじまって、円盤の話で終わると、もしかすると時間的には円盤の話をしてから風邪をひいた、という会話になる可能性も捨てきれず、上段はかなり自由な時間軸をとっているのかもしれないと思ったり。
声を出すということに囚われない、話す行為の全体、ということ? なんにせよ、「かわいい接続詞」とか、会話の内容が好きだなと思った。

くわはらりえこ「コスモタウン・ランデヴー」
UFOの単位って一台、二台なのか。乗り物、車、と考えるとそうなる(一機、二機かなと思っていた)。
どうでもいい知恵袋
車はUFOの話をしながらUFOになったのか、未知の世界へ連れて行って……はくれず、馴染みのある風景に私を運ぶ。なんとなくわかっていたんだろう諦念。すばるくんとの火星デートが虚しすぎる妄想とわかっているような口ぶりとか、タクシー運転手の語りとか、人物の発言が得意っぽくていいなーと思う。

杉本央実
移動が自分の体を失うことであるならば、歩きは体を得ることだ、という部分に惹かれる。論旨ではない部分なので仕方がないけれど、散歩と舞台の関連についてもう少し読みたかった。個人的には散歩って思考に耽ったり、周囲への、文字通り「散」漫があるので、その状態で舞台に上がる、ということはあり得るだろうが、舞台に上がることがその状態だとは、感覚的には言えない。ただ体を得る、とうのが、精神統一とか、そのような方向にイメージされるだけで、本当は散漫とは矛盾しないのだろう、とか、いろいろ考えてしまいますね。

浅山幹也「二指歩行」
(本人にも話したが)発想とオチ、を切り取ると短縮することが可能かもしれないと最初思った、が、やっぱり作品の中心はそこではないんだろうなと改めて読み返して思う。中間の、実際に動かしている、とありありとわかる——「今日はそちらへいくつもりはないので」とかいれる感じ、とてもよくわかる——箇所を経由して、そして指の運動シーン(やってみてしまう)を終え、カーテンをめくることで指が地を離れた、と思ったら最後の展開がやってくる。詳細を追うことが巨大なものを召喚するのに作用するというの、理屈はないけど対比的で腑に落ちる。「心の底から喜びを覚え」ながら最初地球儀まわしてたんか?と思うと、未知の自分との出会いというか、客観視するとちょっとキモい自分みたいなことも思う。

尹海苑「散歩の温度」
黒字を本文、えんじっぽい赤字をガイドとしてまずは読んだ。黒字にある「赤くて丸いボタンがついた四角」はあっけらかんと赤字の方では「押しボタン」と書かれる。具体的な物体が多い赤字パートは、頭の中で想像しやすい。おそらくは散歩道の描写。ただ、「足の裏まで届いたということにしよう」などとあるように、目に見えたことを描写する、というわけではない。これはおそらくは一人の人間の歩きの感覚であることが分かる。一方黒字では、手以外の具体的な物体は、コーンスープの缶、タンポポ、という、おそらくは黄色だったのだろうものだけが書かれる。景色は視力の弱い者の視界のように色のみでぼんやりし、手の感覚と、誰かの声だけが確実なものとして残る。これが一瞬だったのかもう少し長い時間だったのかも分からない。事故的な危うさがある。振り返ると赤字で書かれた行動と黒字での行動は合致しておらず、色のイメージだけ引き受けたのか? と謎が残った。レイアウトも不思議ですが、黒字→赤字→黒字と元に戻ることが自然にできて、目線が往復する。この作品の意図は本当に気になります。

原麻理子「ある散歩」
景色を描写している時ってやはり「すべてを書くことができない」という事実にぶち当たりますよね。それはデッサンに関しても似たような感覚を私は覚えます。
あなた、が見たものの書き起こしは詳細にわたるがすべてではなく、そのあなた、を思い出す()内の人物——おそらくは、時制の違うあなた——が、散歩をするあなたと並走し、あなたのみていた景色を考えるも、それは不確かなものでしかあり得ない。多少は書かれているけれど、時制の違う散歩道を通してしか/断片的な記録を通してしか、過去のあなたには触れられない。裏を返せば散歩道がある限り、書かれたものがある限り、過去に触れられる。
あなた、は、読者に語りかけるというのではない、あなたと書かれた一人称と解釈した。そうすると自分がうまい具合に分裂してくれると思う。
こう書いていると案外作品としては「最後の散歩」に近いかもしれないと感じた。

おまけ:散歩談会(執筆者が多いので雑感)
私がその場にいたら、高橋さんの足の話は絶対に盛り込むと思うのだけど、書いているのは原さんしかいない。なんたることだ……。でも絶対、って言えるだろうか、散歩談会のその場の空気は想像するしかない。


自作補足解説も気が向いたらあとで足します。



鈴木

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