日記:欠食観劇
9月17日
保坂和志がNOPEのこと書いてるの?と寝しなに思ったのが以下の一節である。
「私が雲を見るとき、見るは雲によってもたらされていて、見る私もまた雲によってもたらされている。私が見なくても雲はあり、私がいなくても雲はあり、そして私が見なくても見るはある。私が雲を見るという関係の中で、私が雲よりも見るよりも遅れて最後にやってきて最初に消えていくものではあるけれど、雲によってもたらされた見るをしている私はそれでもやっぱり特別な何かであり、それは私だから私にとって特別だということではなくて、雲や空や木が見るをもたらす送り先として自覚するものとして特別な何かなのではないか。」
今書き写してみて、昨夜は撮影者と被撮影者の話になりそうとか思っていたのであるけれど、そうでもない気がしてきた。図式をそちら側にずらすと、カメラ(撮影者)が見るをもたらす送り先として自覚するものとして特別、で、それは特権とは違う、そういう話はできるかもしれない。とりあえず雲を見る、という喩えがNOPEの雲(あれはいい!)をぼんやりと思い出させる。
仕事のデータがいつ来るか知れたものではないので、昼間は庭劇団ペニノの「笑顔の砦」をみにいった。もうあまり舞台をみに行くことはなくなってしまったが、唯一ここはみておくか、となるのは庭劇団ペニノと、中野成樹+フランケンズである。(フランケンズの9月公演は予定があわずみられなかった)こうしてみるとパフォーマンスやインスタレーションに近いものを一時期ずっとみていたくせに、ストレートプレイに近いものを好んでいるんだなとわかる。フランケンズはその中でも少し特別な感じがするけれど。
「笑顔の砦」は、海辺に住む漁師に西部劇の生き様をうっすら重ね合わせた、アパート2部屋の日常劇(これはワンシチュエーションといえるのだろうか?)。舞台美術が毎度のことながら素晴らしすぎる。舞台美術の構造だけで、これが舞台にしかできない表現であることがわかる。アパートのふたつの部屋をまるまるつくって、それを横から見ているという形になっていて、まずその2部屋同時進行が映像では難しいと思う。そしてただ静かにしている、というのを映像でとると、それがすごく特別なものになってしまうきらいがあって、でも舞台であれば他に目線をやることが観客の自由であるから、「何もしない」ということが「何もしない」のまま成立する。たとえば「寝てる」とか、そういうのも。
時間帯が印象的な舞台でもあった。特に終盤の朝のシーンは本当に良くて、開けない夜はないという言葉でいうと陳腐ではあるが、覚えはないのに懐かしい雰囲気が幸せだった。最後の最後、猫の餌が豪華なおさしみ盛りになっていた細かい小道具も好き(ペニノの美術は、バムとケロみたいな、細かいところに目をやるとくすっと笑えるようなところがあるし、そこがおまけ的な要素にとどまらない)。
昼、まめ蔵でカレーを食べて満腹の状態でみたのだが、無事寝ることなくみた。学生のころは食費を削っていろんなことをしていたので、常に欠食状態で観劇していたわけであるが、今回のこのお腹が空く舞台は満腹状態でみられてよかった、、と切に思う。