日記
9月9日
仕事が休みだったので、とにかく家の掃除をし、午後イチで「ザ・ミソジニー」の初回上映を見に行った。夜は舞台挨拶があるようだった。
高橋洋をずっと追ってはみておらず、よくわからないというのが実情である。今回も謎の儀式あるのかな?みたいな軽い感覚でみにいく。
「ザ・ミソジニー」はずっと映っている女性に目がいくような行かないような変な感覚が続く映画だった。常に背後に視線がいくし、妙にキャラが濃い男性の挙動に気を取られる。背景に広がる森、ガラスに映る景色、写真、すべてピント画あっていないのに存在感をもって現れる。背後に迫る幽霊と同じような感じに。
物語はとある女性が脚本を書くために古びた森の中の洋館にいるというような設定で、現実と妄想を通してなのか明示のないまま脚本ができあがっていく様子をみせる。かつてあった母娘の事件と、母親にコンプレックスを抱える女性、斧を持ち蛇(=ヒトの成れの果て)を狩る男、夫、元夫、産まなかった男児、たくさん役が出てくるが、主要登場人物はたった3人。女2人と男1人で、明確に性別で分けて役割がふられる。だから女2人は同じような体験をするし、男はころころ態度を変えるので忙しい。
演劇みたいに役柄を変えるのを映画でやるとこんなにわからなくなるもんかと、一応劇中劇、という形はとっているけれど、役の台詞は誰が発しているのだろうか。
と、ここまで書いて木下千花の「母娘と「うつす」こと 高橋洋の映画世界における女性性の考察」をようやく読むと、高橋洋の映画内での母娘関係は映し、写す、似る、そして入れ替わるということで立ち上がってくる、とあって、この辺が書いてある部分だけ読んでもうおーと納得する。
「母になる」(母に似てくる)ことが子殺しを背負うことになり、地獄行きへの決定打になるような流れは、その考え方に関してはそんなわけないだろ!なんだけど、あの目力と空気感に説得されてしまうと言うか、これがこの映画での真実なんだと思わされざるを得ない。「呪いの家」と同じく歴史を反復の一部に取り込むことで、終わらない呪いを未来に向けても剛腕でおっりゃあとつくりあげていく。
対立しかけてた女2人が協力しはじめるところは、これがJホラーシスターフッドかい!?と驚きつつ笑ってしまった。
コブラ会の最新シーズンがはじまったのでとりあえず3話までみた。コブラ会はもちろん移人称なんてないけど、どちらの陣営に誰が属しているのかをずっと追う感じになる。今のところ一番の危険人物ダニエルじゃない?