盲腸の静かな夕べ

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日記

7月28日

あんまりやることないだろうとたかをくくっていた仕事にフルで時間かかった。どこかで休みたかったがこの一週間もわりと働いている。
ちなみに蕁麻疹はすぐに治った。本当にストレスが原因だったのかね、、

7月に入ってからたぶん劇場で映画をみていなくて、一昨日は唐突にブレアウィッチプロジェクトを家でみたけど、あまりいまの気分にフィットする感じでもなかった。(あの映画がフィットする気分とはどういうものだろう)

夜、「わたしは最悪」をみにいった。3日くらい近所にしか外出していなかったためか、外の情報量に若干驚きつつ。毎日なるべく自分とは離れた環境を散歩したほうがいいな。
で、映画なのだがとてもよかった。女性応援系映画って意識高すぎて逆にみじめな気分になってしまうこともあるあるなのだが、この映画に関してはそれがない。「ひとりでいること」をこんなふうに描いてくれる映画って他にない、と思った。主人公ユリヤは最悪かもしれないが共感できる。何がしたいのかなんてわからなくて、事が起こってから自分の気持ちを決めていけるというような人物。

対話することに徹底的だった「カモン カモン」とは反対の映画だったかもしれない、というのは思いつきだが、誰かが自分の人生に影響することを支配的に(自分が主人公ではない!と)感じてしまって、それから逃げ続けるという映画だった。だから、終盤、別れた恋人アクセルにとてもいい言葉、たぶん自分では思ってもみなかった言葉を投げかけられても、それをユリヤがちゃんと受け止めているかどうかはかなり微妙に描かれている。あれ、人によって解釈が割れると思うのだけどみんなどうみているんだろうか。私は「響いていない」派で、だからこの映画は良いのだとも思っている。
ただ、終章でユリヤが選択した職業は明らかにアクセルとの時間が影響している。アクセルはガラス越しに街をみて、それを漫画に描いたと語っていた。ユリヤはファインダー越しにアクセルの姿を撮影する。ユリヤの成長がこの映画の中であるとしたら、影響を受け入れたというところじゃないのか。

映画内で何度か出てくるのはフェミニズムの話で、「支配」につながってくる。男性が悪いというわけではなく、ユリヤ自身が、誰かと一緒になることでしか人生を送れていない。どこかから借りてきたような言葉を並べた文章が「君自身だ」とか言われてしまうし。誰かによっかかっているくせに、その誰かが自分を(強い言葉で言えば)「縛っている感じ」に強い抵抗を覚えている。その縛りというのは女であるということによる、妊娠、出産、という縛りでもある。
浴室で血を流すシーンも解釈が分かれるところと思うが、重く捉えると子宮系の病気、ライトに見ると妊娠が終わってまた生理がやってきたというところだろうか。いずれにせよ、妊娠からの解放である。ほっとする。サラッと描いているここが何気にすごい。
ひとつの終わりを朝焼けと共に迎え、それをはじまりとして捉える。その切り替えの速さは悪い癖で、いい癖だ。そして誰かに所属していないと生活できなかったユリヤは最後にやっとひとり、を選択する。決して「強い女」ではないめんどくさい女、ユリヤが生きるための選択である。流れて流れて、その経過で身についた生きる術である。強くパワフルに生きよう、ではなくて、多分大丈夫だから、くらいの後押しがすごいバランスだと思う。爽やかで幸福なラストだ。あとはカメラがすごい良かった。独特でみたことがない感じなんだけど、やってんな感がない。でもやっぱりかなり個性的。


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