盲腸の静かな夕べ

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日記:アネット

昨日『アネット』をみてまだ引きずっている。パンフ買ったけど結構ボリュームがあって半分くらいしか読めていない。興奮の映画体験だった。こんな形でフィクションの絶望がみられるのかと新鮮な気持ちだ。仕事がごちゃごちゃとあってこんなタイミングでチケット取るのではなかったと後悔しかけていたけどふきとんだ。

まずオープニングからめちゃくちゃ楽しくて、あの列に加わりたい、加わりたい、どうしても、という気持ちを掻き立てられる。心酔するつもりはないけれど、こういう映画を何百人もがよりあつまって作っているという状況はもう、幸せだ。


舞台上では死ねないという問題がある。演じているのは生きている人間だから。オペラ歌手であるアンは何度も繰り返されてきた悲劇の物語の中で何度も死ぬ。でもそれはオペラの中の話なのだから本当に死ぬことはない。それを乗り越えて、「笑い殺す」といって舞台に立っていたコメディアン・ヘンリーは人を殺めるわけだけれども、死んだ人間は何度でも蘇ってスクリーン上に現れる。だってこれは悲劇の筋書きの映画だから!
というようにフィクションに生きるキャラクター(俳優ではない)の、そこでしか生きられない絶望というのがみれる。みている私にとってはどこか他人事だ。あれはキャラクターの絶望であって、終盤のアネットのように、その輪から抜け出している人間にはあらかじめ希望がある。そしてオープニングのシーンでもう一回興奮したいなあとか思って、何度も何度も劇場に足を運んで、何度も何度もキャラクターたちを絶望の淵に叩き落としてしまう。

ビッグバンセオリーでハワードがわりと好きだったにも関わらずサイモン・ヘルバーグの出演にしばらく気が付いていなくて、指揮の場面で「ハワード……? まさか、ハワードなのか……?」と徐々に認識した。ヘンリーもといアダム・ドライバーとの身長差もよい。

スパークス全然知らなかったけど今日から聞いている。
東京のロケ地のうちのひとつは渋谷の鶏なかという店らしい。

読んだ記事とか
北村紗衣  「男らしい」コメディ、「女らしい」オペラ~レオス・カラックス監督『アネット』(WEZZY)
小野寺系 レオス・カラックスが見出した、観客の感情との確かな接点 『アネット』で新たな境地へ(real sound)
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