日記:なみのおと
昼間、やる気のない人がやった仕事を引き受けてポチポチなおしていたら、「やる気はあるのか」と上司に怒られた。なんでだ。余裕ができるはずだったので夜の映画のチケットをとっていた。作業をほうりだして向かった。下北沢にできたK2シネマにははじめて行く。何事にも斜に構える恋人はすでに行ったことがあり、洒落た内装にぶつくさ言っていた。私も古い人間なので、下北は変わっちまったな……ととりあえずのテンプレ悪態を心の中でうかべておく。
濱口竜介の作品は、自分の周りの人間の鑑賞率を考えると、みていないほうだ。震災三部作を一切見ていなかった。みられてよかった(ありがとうK2シネマ!)。話す人間に対して、聞く人間が存在する、ということをちゃんと意識したのは、屋根裏ハイツ(劇団)の人の話を聞いた時だったと思う。最初は彼らはモノローグばかりの作品をつくっていたようだったが(その時の作品はみていない)、やがてダイアローグのものをつくるようになったらしい。人が話していることを聞いている人が同じ舞台上にいることで、観客も聞き方がわかるかもしれない、と主宰の方が話していたのをよく覚えている。『なみのおと』ではそれを久しぶりに思い出した。
別役実が、ベケットの『わたしじゃない』(口、が登場人物である変な戯曲だ)に登場(?)する聞き手、について文章を書いていたような気がする。私がみたことのある上演では本当に「口」しか舞台上に存在しなかったのだけれど、どうやら聞き手、という役割もいるらしい。別役の何に収録されていたか思い出せないけれど、探すか。
南三陸に行った時のことを強く思い出した。ずっとその時のことを後悔していたが、この映画をみてその気持ちも少し変化した。2011年の震災時、東京にいた私は、震災の外にいるとずっと感じていた。実際被災者ではない。それでは現地の様子をみにいってみようと、たしか2年後くらい?に軽い動機で向かってしまったのだ。せめてボランティアでいけばよかったのだが、愚かにも頭に浮かんでいなかった。友人と現地に行き、何をするでもなく震災後にできたカフェや復興途中の店で話を聞いたりした。不思議がられたが、地元の人々は極端に優しかった。プレハブの居酒屋で共にご飯を食べたり、バスを改装したうどん屋でご飯を食べた。それでもやはり当たり前に、震災の実感が薄かった。体験の尺度がその人それぞれで違う、ということはわかっていたようで、『なみのおと』を通じてやっと腑に落ちたような気がする。私の若い時の感情と行動も、それはそれでちゃんと体験だったのだろう(震災の、とは言い切れないが)。普段人の話を聞くのが苦手だけれど、こういう映画の形を通してならば、やっと人の話しが入ってくるし、そして自分の語りが出てくる。
劇場の外のシモキタエキウエでは若者が多数しゃがみこんで話していて、綺麗になった下北でも下北じゃないか〜と思った。