盲腸の静かな夕べ

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日記

 ここ最近のことを書く。先週は『うららかとルポルタージュ』(演劇)をみた。
 その日は朝から恋人と喧嘩をしていた。イラつきがたまると黙り冷たくなる恋人に私はイラつく。話し合いの末に、怒りの小さなきっかけであった洗濯物干しの購入をめぐり、「洗濯物干し」とお互い言いまくっていると、だんだん面白くなってきてしまって、変に笑っていた。
 喧嘩が落ち着いたところで北千住に向かう。何度も行ったことのある劇場だが、前より随分遠く感じる。喧嘩に時間をとられ、『無断と土』をパラパラめくることもままならなかったため、行く途中にmisora100さんの紹介記事に目を通そうとするも眠気がすごくて途中までしか読んでいない。

 地下にある劇場に入るとまず笑ってしまった。録音された音楽(コーラスではない、人の唸り声のようなものがする)と振動しながら自立するビデオテープ(え!?)の不穏さにわくわくする。ホラーは好きだ。ビデオテープをひさしぶりにみたと思った。すぐさま「境界カメラ」を思い起こす。  
 BUoyという劇場の大きな特徴である大きな柱が、舞台の正面から少しずれたあたりに配置されるよう、舞台と客席が組まれていた。どこに座ってみても死角が生まれる。そのことは当日パンフにも記載されていた。死角のことを考えると、ベケットの『Film』を思い出す。あれは映画。
 内容についてはほとんど分からなかった。天皇および天皇制についての話があった。戦争について触れるところも。2031年に書かれた、2041年についての戯曲の2021年の上演なので、先の戦争から考えると100年くらいのスパンがあるのだ、と頭の片隅で思った。天皇制ときくと別役実の戯曲をいつも思い出す。ここら辺なにか考えられるだろうか。
 当日パンフのシノプシスのとおり、心霊ドキュメントのディレクター=撮影者の立ち位置のような役である人間がおり、他もそれぞれどうやら独立した役割(?)を持っている。あとで戯曲をみると、スカートの女性が(心霊映像の)「作者」らしかった。みていて分かっていなかった、他の役も。
 途中、俳優たちが柱の影に隠れたところは、モニターの映像に視線がいった。映っているのは過去に撮影した、現在行われているものと同一のシーンである。今現在何が起こっているのかをみるために、過去の映像を参照するしかなかった。これはどういうことなんだろうと思った。過去の映像は、「作者」が撮っていたような構図になっていたように記憶している。
 セリフが聞こえなかったり、同時に話すところも多いので、声を漠然と耳に入れていたが、最後のシーンになったところで、柱について語っている部分がよく聴こえてきた。そのために、地面に横たわるからだと、それを知らずにそびえる地上の図式(会場のBUoyが地下なので)が強烈に印象として残った。BUoyでなかったら全然違った見え方がしたのだろう、それにしたって、私自身が会場の特異性に気をとられすぎではないかと思った。ここに感動してもどうしようもないのではと感じる。

 終盤になってくるとたまの「パルテノン銀座通り」が思い出された。「ぼくらは時々恋人になって/くるったように踊りを踊り続けて/ぶっこわれた笑い方を楽しみ/そうして/言葉を全部うしなった夜に沈もう/何度も同じ場所で/何度も似たようなことをしよう/よくみがいたスプーンにまがったままよくうつるように」という歌詞が、まあ悲恋の歌なんだけど、現在のどうしようもなさをむしろ保つための繰り返しの演技についての歌だと思っていて、頭に浮かんだ。今検索したら今年この曲をkitriがカバーしていたっぽい。まじか。

 アバターの死体というものがあったとして、それはプレイヤーがプレイしていない状態のアバターのからだを指すのだろうか。本来ならば目撃が不可能なもの。それをずっと目撃させられていたのだろうか。あつ森の主人公はアバターとはまたちょっとずれるだろうが、プレイヤーがプレイしていない状態の主人公をみることができる(夢見の機能とか、サブアカの機能とかで)。それはプレイしていない時の決められた行動ではあるわけだが、不気味っちゃあ不気味だ。

 俳優という存在をどうやってみたらいいかわからなくなっている(それはこの演劇に限らない)。例えば他の動きだとどう声の響きや見方が変わるのだろうか。比較できる機会があれば何かヒントが得られるかもしれない。自分のからだが動き出しそうとかそういうことはなかった。それぞれがかなり違う動機で動いているように感じ、そのそれぞれの詳細は見ることができない(それこそ、繰り返しみないと/しかし、みれない)。
 あとで戯曲をパラパラめくると、この言葉をあんな風にいっていたのかというあとからくる驚きがあった。
 途中、スラスラと発せられたセリフがあった。誰かに話しかけているようなセリフだった。ボタンを押されたから再生する、そのようなテンションでいて私の耳にもよく届く。対して、それ以外のほとんどのことばは耳に入るには抵抗感が大きい(というかさっきも書いたが単純に音量や速度的にきこえないところがあった)。アバター(化身)役の人物がいた。しかし他の役者もすでに何かの化身である。化身たちは、うわすべりすることば(戯曲の文字)たちをどうにかしてからだに言わせている、かろうじて言える体勢を整えている、そんな風にも見えたかもしれない。考えすぎかも。頭でいいように変形させてる感じもある。もう一度みられたらいいのに、演劇はみられないし、2回目見てもだいぶ変わっているんじゃないだろうか。くそー。

 当パンにあるシノプシスの「アバター=化身が、取り残されたまま〜」のあたりで、完全に「踊り続けるアバター」の有名なネット怪談だと思い込んでしまったがもう一度読んだら全然違った。久しぶりにあの怪談を読み返して、もっと怖くなかったっけ?と思う。他にアバターの怪談ってあっただろうか。

 というようなことを考えつつもよくわからんなと思い、うらルポより前にみた『マリグナント』のことを考え始めた。これについてはきっちり書きたいなという欲望がわいている。参照したい記事を読み、それでいろいろ理由が発生して『あのこは貴族』をやっとみた。丁寧な映画だった。私はいまいち盛り上がれず、その理由が意外と重要なことだと発見して、『マリグナント』について書くことにつながりそうで、よかった。

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