文体の舵をとれない 2 ジョゼ・サラマーゴのつもりで
ル=グウィンの小説教室、『文体の舵をとれ』の課題2です。
練習問題② ジョゼ・サラマーゴのつもりで
一段落〜一ページ(300〜700字)で、句読点のない語りを執筆すること(段落などほかの区切りも使用禁止)。
建った家には初秋頃に父親と母親と子供2人合わせて4人がやってきてこの家はあたたかいねといいつつ11月には床暖房をつけぬくぬくとすごしエアコンとヒーターをフル稼働させるころに居間に飾っていた大きなツリーは10年後に粗大ゴミとして捨てられそうになったところを上の子供にひきとられネット上のオークションにかけられ福岡の人間に競り落とされたさて家には若い夫婦がおりもてあましている多い部屋の中のひとつかつて子供部屋だったところは犬一匹に与えられその四隅を犬が走り回り廊下を挟んだ向かいの部屋にいたこともあった下宿人を迎え入れたのはその時の家の主の老夫婦でそろそろこの家もガタがきてるねと下宿人に話したその一ヶ月後にははずれてびろろんと空になげだされた雨樋をだましだまし直しながら使っていた時期は過ぎしばらくは人が住まなかったせいかねずみか何か小動物が徘徊したのちの台風で近所の屋根から瓦が飛び込み窓ガラスが割れ破片がフローリングに細かく散ったのを運良く避けていた娘から報告を受けた父親はもう引越しの3日前だったので処理は管理会社にまかせることにして直された窓の前に今度はこぶりのツリーが飾られその下に雪を模してしきつめられていた綿は年数を経るごとに黒ずんでいったので屋根裏におしやられ家が壊される時までそのままであり瓦礫とともに廃棄されたのを庭の木が見ていたはずだ
他の方の取り組んだ作品をいくつか読んで、句読点を使わないということはそうか、ただ抜くのではなく「。」がそもそもつかないように文を書くということもあり得るのだとようやく気がつく。ただ、結局完全にそのようにはしなかった。
句読点のない文が起こす効果とは何か。テーマ案で混沌とした群衆描写が推奨されていたこともあって、句読点のない文は、短時間のあいだもしくはほぼ同時刻に次々におこるできごとの描写に向いているし、そう解釈されやすくはなるだろうと思った。そういうもので書きたいものがあるかなと考えつつ、句読点の真価を考えようという練習問題の意図をふまえ、句読点が必要になるような区切りを含んだ文にしようと思った。
この文を書いた日、もう中学生の月開催の新ネタライブに行ってきて、「次回開催は12/25です」と言っていたのが頭に残っていた。クリスマス。そしてなんとなくワイルダーの「ロング・クリスマス・ディナー」が頭によぎる。長い時が経つ文章にしようと思った。
途中で「さて」と書いたのは多分はじめてで、句読点以外の強制区切り言葉だなと感じた。さて、ってなんだよと面白くなってくる。受動と能動の使い方がごっちゃになる。文がちゃんと通っているのか、ということもわからなくなってくる。
独習とのことで、好きな文の句読点を分析せよという課題もあるのだが、これはまた気が向いた時にやります。