日記 『ドライブ・マイ・カー』雑感
濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』を観たのは一昨日で、考えたり、他人の書いたものを読んだりして落ち着きをとり戻したのでこれを書いている。
この映画に関してこういう論考があると、イワシさんという方がnoteにいくつか記載していた。それを参考にとりあえずネット上にあるものに関しては読んだ。
Real Sound映画部 荻野洋一「濱口竜介監督の圧倒的な一作 『ドライブ・マイ・カー』という主語なきフレーズが示すもの」
エクリヲ 伊藤元晴「カメラに映ってはいけない男ーー『ドライブ・マイ・カー』論」
NOBODY 『ドライブ・マイ・カー』特集(論考4本)
またこれとは別に、群像9月号には三浦哲哉による論考、文學界9月号には濱口竜介×野崎歓の対談と、瀬尾夏美、佐々木敦による論考が掲載されているらしい。これもおいおい読もう。というか原作を読んでいなかった。
この映画に関しては、どういう論点で文章が書かれるのか、ということがとても気になる。注目すべきところが限りなくあるように感じるからだ。木下千花の論考は自分の感想に近い部分があると感じた。映画のはじまり、逆光、事後の男女、これに正直私は辟易する。「女の闇」か〜みたいな。しかしその謎は物語終盤でかき消える。そのことが、複雑さを保ちつつも透明度の高い(抽象的な表現のない)この映画が達成することとして、ひどく納得感があった。
『ドライブ・マイ・カー』はとにかく複雑であると感じた。ストーリーを追うことに難はないが、要素が多い。家福の車ひとつとってもそうだ。渡利が家福の車を運転する。乗っているのは家福と渡利。その中で家福は、自分が演じるわけでもないワーニャのセリフをそらんじる。録音された家福音の声はクリアで、他の普通の話し声と大差ないようにカーオーディオから聞こえてくる。家福や音の戯曲の読み上げ方は、機械的かつ明瞭であり、稽古の本読みにおける家福の指示、「感情をこめない」というものに沿った読み方と言える。
こうして書くとそこまで混乱はないのだが、これらが画面上に同時に現れると、なんだこれは……と情報量におののくことになる。しかも全編この濃度で進行していくのだから困る。
他人に運転を任せるということは、自分のからだの行き先をコントロールされるということだ。それが家福と渡利との間にあったからだに関する関係であった。映画内では、肉体関係ということでの人と人との接触も描かれる。また、他人のからだを介しつつの(二人羽織的な)手話表現もある。その、人間が二人以上いることでおこる関わりについて、演技について、あの、最後舞台上にあらわれる「何か」について、正直ぜんぜんわかっていない。家福が劇中で放ったように、「何かがおこっていた」ことだけがわかる、という状態にいる。高槻なのか岡田将生なのか、家福音の思念なのかわからないものが映っていた夜の車内についてもそう思う。