家が家でなくなっていく ——『ファーザー』(『The Father』)感想
2020年公開(日本では2021年)
アンソニー・ホプキンス演じるアンソニーは認知症(字幕内ではそう名言されなかったと思うが、そうであろう)を患う。映画はその彼の主観に寄り添い、「世界の側」が変わっていく様を描いていく。
以上のような、ざっくりとしたあらすじは知人から聞いていたために、映画が始まってからはしばらくは意外だった。そもそも映画は、アンソニーの娘、アンの視点から始まる。介護人をクビにし、自分に助けはいらないとアンに反発するアンソニーの姿は何度も映され、介護の苦悩が——それもほんの一部であろうが——あらわになる。
そのようにアンソニーの主観だけでは物事が進まないために、あたかも通常の物語映画と同じように観てしまう。だからこそ、「世界」が歪み始めたときに、とてつもない裏切りを感じる。どこで時間が狂った? 目の前の人間は誰なのか? ここは誰の家なのか?
カットが変わるごとにどこかへ連れて行かれそうな恐ろしさと、その恐ろしさを見たいという不謹慎ながらのわくわく感が同居する。それはまだ他人事でいられている証拠だろうか(しかし、自分自身や、両親のことを考えずにはいられない)。
アンソニーにとって誇りでもある自分のフラット(家)の姿が刻一刻と姿を変えていくのもじわじわと恐ろしい。印象的な小物が散りばめられているが、それらがあったりなかったり、いつのまにかすっかり差し替えられているという恐怖。何時なのか、どのくらいの月日が経ったのかがわからない光の演出も冴え渡り、家の姿は固定化せず、なかなか全体像が見えてこない。
アンソニーの家/アン(とその夫)の家/介護施設、それら舞台のグラデーションがひとところに存在できるという映像演出に感動した。